気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

後継者は日目か日代か。




いつもお読みいただき、ありがとうございます。
さて日興滅後に大石寺では『日興跡条条事』を出してきて日目への相伝があったことを主張していますが、反対に西山本門寺では『日代八通譲状』を出してきて日興から日代への相承があったということを主張しています。実はこのことをあまり創価学会の方は知りません。


大石寺の『日興跡条条事』も西山の『日代八通譲状』もどちらもその信憑性については眉唾物で、偽書の疑いを払拭できていません。


で、第三者的に冷静に考えてみると、日目も日代も優れた日興の後継者であって、重須は日代に、大石寺は日目に、優秀な二人に任されたと考えるのが一番妥当な判断かと思います。


というのも、日興が亡くなった時の記録で『富士門家中見聞上』には以下のような記述が見られます。


「初七日には日代の御供養重須に於て之を修し日目の御説法あり、一百箇日の御仏事日目大石寺に於て修し給ふ御説法は日代なり御伝」
(『富士宗学要集』第5巻179ページ)


これを以て見ると、日目・日代どちらも日興の後継であり、それぞれが導師となっている事実を示しています。ここから考えるとどちらかが「唯授一人」の付属者ではないことがわかります。恐らくは「唯授一人」も後世に形成された教義なのでしょう。
事実、大石寺66世日達の葬儀も通夜も初七日も、67世日顕が導師を勤めています。ここから考えると日目と日代が同等に導師を勤めていることは明らかに現在の大石寺とは趣きを異にしています。






追記:
ちなみに大石寺4世日道は実は日興の葬儀に参列していません。このことからも大石寺の唯授一人という教義が後世に形成された証左とも言えるでしょう。






未来部に未来はない。






いつもみなさん、閲覧いただき、ありがとうございます。
創価学会の未来部の減少ぶりは本当にひどいものですが、あるブログ記事を見て改めて衝撃を受けました。


「未来部合計20万人」(蓮の落胤創価学会、話そうか)


この方も私と同様、非活メンバーの一人ですが、ここまでデータを提示されるともはや創価学会の未来部に未来などないということがよくわかりますね。
以前こんな記事を私も書いています。


「未来部って」


蓮の落胤ブログ主さんの意見とほぼ同じですが、遅かれ早かれ、日本の創価学会は滅びます。組織維持のために躍起になって壮年婦人部は努力しているかと思いますが、あらゆる努力はもう手遅れです。
東京五輪が終わって、2025年頃が一つのターニングポイントになるでしょう。団塊の世代が75歳くらいになる頃です。さすがに組織の活動家のメインが75歳を越えるようになったら、もはや組織人事も入れ替えないとダメでしょう。


聖教新聞を配る人もいなくなりますし、白ゆり長やB長のなり手も不足してくるでしょう。
現状で75歳を越えた白ゆり長がすでに出てきていますから、これがまた一層深刻になってくるはずです。
男女青年部と同様に地区の壮年、婦人でも地区役職が立てられない人材難に陥ることでしょう。


もはや日本の創価学会組織の壊滅は時間の問題です。この現実を受け止めることが大切でしょうね。




日興『三時弘経次第』を読む。






いつもありがとうございます。


日興筆とされる『三時弘経次第』ですけど、実際には真蹟は存在していません。堀日亨氏は『三時弘経次第』の内容が日興正筆の『本門弘通事』と同趣旨であるとして『富士宗学要集』に同編を続けて収録しています。このことから『三時弘経次第』が日興真撰である蓋然性は高いことになります。堀日亨氏と同様に宮田幸一氏もこの点について同書の信憑性に一定の評価をしています。
内容的には天台宗戒壇を迹門とし、法華の戒壇を本門とするものです。
日興正筆の『本門弘通事』と内容が同趣旨であることから考えても、同抄は日興の当時の思想を伝える書物と判断してよいと私は考えています。実際、堀日亨氏と宮田幸一氏も同じ判断をしています。
実際にどんなことが書いてあるか、全文を引用してみましょう。



「一仏法流布の次第
一正法千年流布  小乗  権大乗
一像法千年流布  法華  迹門
末法万年流布  法華  本門
末法に入つて本門を立てて国土を治む可き次第。
桓武天皇伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てて像法を利益し国土を護持する事之を図す。
迹門の寺  付属の弟子は  薬王菩薩  伝教大師
比叡山  始成の釈迦仏  迹化垂迹の師檀  像法。
日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てて末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺  付属の弟子  上行菩薩  日蓮聖人
冨士山  久成の釈迦仏  本化垂迹の師檀  末法
天照太神の勅に曰く、葦原千五百秋の瑞穂の国は是レ子孫の王たる可き地なり、宜しく就て治む可し。
孝経に云はく、先王正直の徳を行ふときんば四方の衆国皆法則に順従するなり。」
(日興『三時弘経次第』堀日亨編『富士宗学要集』第1巻相伝部49〜50ページ)



最澄戒壇を迹門の戒壇とし、日蓮戒壇末法万年の戒壇、本門と配するという観点で書かれており、日興らしい思想だと考えられます。
そしてこの中で書かれているように「本門の寺」における「付属の弟子」は「上行菩薩」としての「日蓮聖人」です。どこにも「御本仏」とも「久遠元初自受用報身如来」とも書かれていません。


「本門の寺」において日蓮の立場が法華経で釈迦より付属を受けた上行菩薩であるとするなら、日蓮本仏説が見られることの方がむしろ不自然です。事実ここでは日蓮本仏説など微塵も見られません。もしも日興に日蓮本仏説があったとするなら、迹門の戒壇を破って本門の戒壇を富士山に建立すると主張している文書で、日蓮聖人の立場を「上行菩薩」と書くはずがありません。しかも次の行には「久成の釈迦仏」と書いて釈迦本仏説を明確に打ち出しています。


従ってここから考えても、『三時弘経次第』を真撰とする立場に立つならば、日興の中に日蓮を本仏とする思想は当時から存在しなかったことが容易に推察できるかと思います。









転輪聖王のこと。





いつもありがとうございます。
今日のテーマは「転輪聖王」(てんりんじょうおう)についてです。



転輪聖王」って知ってます?
転輪聖王とは武力を用いることなく正法をもって全世界を統治する理想の王のことです。日蓮曼荼羅本尊にも書かれることも多いです(現在の創価学会が授与している日寛書写本尊に転輪聖王は書かれていません)。


全部で4種類ありまして、
鉄輪聖王(てつりんじょうおう)
銅輪聖王(どうりんじょうおう)
銀輪聖王(ぎんりんじょうおう)
金輪聖王(こんりんじょうおう)
の4人がいるとされています。


で、実は日蓮正宗にはもともと広宣流布が達成される時に、この転輪聖王のうち最高位にある金輪聖王が出現するという変な言い伝えがあるんですよ(笑)。
例えば昭和48年6月号『大日蓮』での細井日達氏の説法ではこう述べられています。


「この人間の中で、一番最高の人というのは、転輪聖王だと。転輪聖王がこの世に出現する時は、大海に優曇華の華が咲く。また木が生えて、花には立派な実がなる。
で、この一番転輪聖王の上の人を金輪聖王と言い、金銀銅鉄という四種類の、四種類と言っては申し訳ないけれども、四つの転輪聖王が、鉄輪聖王・銅輪聖王・銀輪聖王・金輪聖王がいる。
で、広宣流布の時は、この金輪聖王が出現するのである。だから広宣流布の時は、この金輪聖王が出現して、世の中は平和になる。すべての人をこの平和に導くんですから、いかなることも自由自在である。妨害するものも信服し、自らは十善を行じて大果報を得ておる。
そこで妙法蓮華経はいつ広宣流布するんだという問題が起きる。最後の本当の広宣流布の時はこの金輪聖王の出現にある。その時に戒壇の本尊を中心として、みな世界平和を祈り、共に世界平和になって、お互いに我此土安穏、この土は常に安穏であっていただきたい。それが法華経の信心である。我々の願いである。妙法流布の根源である。広宣流布のその時の王様はどういう王様なのかそれは分らんけれども、名前は金輪聖王という資格に於て出現しなければならない。」
細井日達・説法「法蓮抄」、『大日蓮』昭和48年6月号)


ところで、この日蓮正宗の謎の教義なんですが(笑)、創価学会もこれと同じ考え方に立つようです。少なくとも90年代くらいまでは創価学会もこの「転輪聖王」の考え方をとっていました。池田氏のスピーチから引用しましょう。


「正義によって世界を平和と繁栄に導くーーこれが仏法の目的である。
それをなしゆく理想の指導者像を『転輪聖王』と説く。(中略)
この転輪聖王のなかでも最高の王者を金輪聖王という。
金輪聖王の影響力は、東西南北、全世界に及ぶ。
現代的に言えば、武力を使わない。権力などのハード・パワーを用いない。人々を圧迫しない。
『人格の力』『哲学の力』『芸術・文化の力』というソフト・パワーで、信服と尊敬を勝ち取っていくのである。
初代会長・牧口先生が提唱された『人道的競争』の理念も、その精神は同じである。
しかも、他の銀輪聖王などは、自分のほうから相手の国へ行く。
これに対し、金輪聖王は、自分が行かなくても、世界中から慕われ、人々が集まってくるという王なのである。
光栄にも、今、創価学会は、世界の最高峰の知性が千客万来である。」
池田大作SGI総会・本部幹部会・中部総会でのスピーチ、1998年11月17日、聖教新聞


池田氏はここで、創価学会そのものこそが「金輪聖王」なのだとしています。
かつて原理主義的な一部の最高幹部たちは「池田先生こそ『金輪聖王』なのだ」と主張していました。今もそうなんでしょうか。



まあ、どんな教義を信じても個人の自由ですけど、私にはこんなお伽話みたいな教義はどうでもいいです(笑)。
百歩譲って「池田先生が金輪聖王だ」として、果たして池田氏の登場によって世界平和って進んだんですかね(笑)。
池田氏が金輪聖王なら、細井日達氏の説法によれば「金輪聖王の出現」は「広宣流布の完璧の時」なのだそうですけど。
今、広宣流布って「完璧」ですかね。
地域組織の青年部員など絶滅危惧されている感じが私にはするんですけどね。



日蓮の教義でないもの。





いつもお読み頂き、みなさん、ありがとうございます。


以下にいろいろ書きますけど、これらは日蓮の教義ではありません。
創価学会日蓮正宗の方はこれらを日蓮の教義だと勝手に思ってますけど、勝手に言ってるだけです(笑)。ぜーんぶ日蓮の教義でもなんでもありません。




◯十四誹謗
以前にこのブログで書きましたが、これは日蓮の教義ではありません。中国天台宗第6祖妙楽大師湛然が作った教義です。湛然の『法華文句記』に出てきます。


◯九識論
もともとは唯識思想の世親から生まれた考えです。本来は八識の阿頼耶識までしかなかったものに、天台宗華厳宗が九識の阿摩羅識を加えたものです。九識論を深めたい方は世親から『浄土論』や念仏思想に進むのが自然かと思います。


◯即身成仏
弘法大師空海によって作られた造語です。空海の『即身成仏義』で展開されました。ですから即身成仏の義を「盗み取った」のは実は真言ではなくて、実際には天台宗日蓮の方だと思います。


◯無作三身
最澄の『守護国界章』に出てくる概念です。ただしこれを「凡夫即仏」という本覚思想の意義で使われていたという観点には異論があります(元来、最澄は『守護国界章』で法相宗の徳一と法論をしていまして、その中で使われた概念です)。これを凡夫即仏という考え方で使われるようになったのは後の天台宗です。ちなみに日蓮の真蹟遺文には1箇所も使われていませんので、本来日蓮の思想とは言えません。


言うまでもなく真言の考え方です。ちなみに日蓮は「曼荼羅」ではなく「漫荼羅」という当て字を使っていますが、慣例にしたがって「曼荼羅」と表記しておきます。


◯謗法
本来は空海の『秘蔵宝鑰』と円珍の『授決集』で使われた術後です。日蓮は「謗法」について、空海円珍の概念と、無量寿経における「誹謗正法」という文の解釈を組み合わせて独自の考え方を編み出したと推測されます。


◯十界
天台宗の概念であり、体系的には中国天台宗の志磐によって書かれた『仏祖統記』に出てくる術語です。日蓮のオリジナルの思想でも何でもありません。


◯半眼半口
亡くなる時の成仏の相として言われますが、この由来が私にはよくわかりません。これは浄土宗でも言われることですし、別に日蓮特有の教義でもないんですけどね。








日道『三師御伝土代』を読む。





大石寺第4世の日道(1283〜1341)によって書かれた『三師御伝土代』という文献があることはよく知られています。この日道自身による真蹟も大石寺に現存しています。

これは日蓮、日興、日目の三師について書かれた最古の文献の一つでして(元弘3年/正慶2年・1333年。この年は日興と日目の没年)、特に日蓮自身の誕生日を「貞応元年2月16日」と記録している、日蓮門下中最古の文書です。


『三師御伝土代』の冒頭はこう始まります。

日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は即安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」
(『富士宗学要集』第5巻宗史部1ページ)

日目より相承を受けたとされる日道ですが、ここで彼は日蓮の「本地」を「上行菩薩の後身」としています。
つまり日道の頃にはまだ日蓮を本仏とする説は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。


少し読み進めて後半に行きましょう。


「文永十一年きのへいぬ十月蒙古国寄す合戦。
同十二年きのとのい正月下旬蒙古国人三人鎌倉へ下ル後又五人下ル。
同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頸斬れ畢んぬ。
建治元年きのとのい六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。
弘安元年つちのへとら建治四年二月二十九日改元
弘安五年みつのへうま十月十三日辰の時聖人御遷化、」
(同6ページ)


日蓮正宗にとって最も大事な弘安2年10月12日、戒壇本尊建立の記述は存在しません。
ここから考えるに、日道の時代(1283年〜1341年)にはまだ「弘安2年戒壇本尊」は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。


もう少し読み進んでみましょう。


「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ソ三身即一の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」
(同12ページ)


戒壇本尊は「仏滅後二千二百二十余年」ですから、ここでも記述が相違しています。
ちょっと整理すると

戒壇本尊:仏滅後二千二百二十余年
七箇相承:仏滅度後二千二百三十余年
御伝土代:仏滅後二千二百三十余年

一貫しているとは言い難いですね。
また「三身即一」の仏はここでは「日蓮」ではなく「三身即一の釈尊」とされていますから、日道の考えでは「本仏」は「釈迦」であることがここからわかります。

ここから推察できることは以下の点になります。


①日道の時代(1283年〜1341年)には、日蓮の本地を「上行菩薩」としており、まだ日蓮を本仏とする思想は存在していなかった。

②日道の時代(1283年〜1341年)には、弘安2年造立とされる戒壇本尊は存在していなかった。


以上2点が自然な推察であると考えます。







阿部日開氏の「二千二百二十余年」。






いつもみなさん、ありがとうございます。



御本尊の表面に書かれている讃文について『御本尊七箇相承』には「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべしとされているにもかかわらず、戒壇本尊には「仏滅後二千二百二十余年」と書かれています。この日蓮正宗の教義矛盾については当ブログで繰り返し指摘してきたところです。

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

で、なんでこのことを繰り返し私がここで書くかというと、実際に日蓮正宗法主で『御本尊七箇相承』に従わず、戒壇本尊を手本として「二千二百二十余年」と書いて問題になってしまった方がいるからです。
その人物とは大石寺60世阿部日開さん(67世・阿部日顕さんの実父)です。



日開氏は昭和3年法主への登座直後に本尊書写で「二千二百三十余年」と書くべきところを「二千二百二十余年」と書いてしまいました。
これについて宗内は紛糾し、日開氏は小笠原慈聞氏に詰め寄られて「漫然と書写して誤った」といったん謝罪をします。
ところが小笠原慈聞氏らは昭和4年2月18日朝、阿部日開氏が六壷にて勤行を終えるのを待ち伏せして、この件についてさらに詰問するんですね。まあ小笠原氏も宗内の僧侶ではありますが、時の法主の日開さんをそこまで攻めるかと思うと驚きを禁じ得ませんね。
阿部日開さんはここで過ちを認め、訂正文を書くはめになります。



「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上 
六十世 日開 花押」



で、ここからは私の意見ですが、これは誤写というより、阿部日開さんの見解であったと思うんですよね。
そもそもこの当ブログで紹介しているように、戒壇本尊には「二千二百二十余年」と書かれています。実際『日女御前御返事』でも「二千二百二十余年」とされていますし(御書全集1244ページ)、日蓮自身の真蹟本尊中も「二十余年」と「三十余年」の二つがあることは周知の事実です。また日常門流には「二千二百二十余年」とする相伝も残されています。
ですから阿部日開さんはここであえて戒壇本尊にきちんと習って「二千二百二十余年」と書写したのだと私は考えています。



法主日蓮の内証を法水写瓶で受け継いだものであるとするなら、小笠原慈聞氏が時の法主に意見することは批判されて然るべきです。
しかし事実は異なり、小笠原氏の批判を受け入れて法主が謝罪をする状況に陥ったのです。ここからわかるように法主無謬論というのはあり得ない論です。法主もまた一人の人間であり、批判されることもあり得るし、実際この阿部日開さんのような事例も過去に存在したということです。
御本尊書写の問題、そして戒壇本尊の相貌と『御本尊七箇相承』との相違点というのは、日蓮正宗が抱える決定的な矛盾なのであって、本尊についての教義さえ整理できずに広宣流布を語るなど噴飯ものであると私は思います。この問題を早めになんとかしないと、また同様の問題に日蓮正宗はぶつかりかねないでしょうね。