気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

曼荼羅本尊と仏像本尊は同義。




いつもありがとうございます。


さて先日「日興は仏像本尊を認めている」という記事を書きました。


この記事内容につきましては、かつて「日蓮本仏論について」という投稿で部分的に書いたことの再掲に過ぎなかったのですが、意外に反響を頂きました。ありがとうございました!


そこで多くの方が疑問を感じたのは
「ではそもそも誰が"曼荼羅本尊正意説"を言い出したのか?」という点でしょう。
この点については宮田幸一氏でさえも、仏像本尊よりも曼荼羅本尊正意説を唱えています。



これは予想されるに、師の教えに厳格であった日興と、その門流たちが歴史的に形成してきた教義だったのではないかという推論を今の私は考えています。


例えば『富士一跡門徒存知事』では「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」(御書1606ページ)とあります。この『富士一跡門徒存知事』は重須の日澄の筆と言われていますから、曼荼羅本尊正意説というのは恐らく日興門流の中で歴史的に形成されてきた教義なのではないかと思います。


そもそも日蓮門流でも見解が一致しているところですが、日興という人物は厳格な人であったと言われていますから、その厳格さゆえに曼荼羅を大切にし、そこから曼荼羅本尊こそ日蓮の正意であるという説になったのではないかと。


私はそもそもブログ執筆当初の一年前は、日蓮の釈迦仏本尊説と曼荼羅本尊説で「日蓮自身の本尊の定義に一貫性がない」と考えていました。


ところがご存知のように実質的に日蓮が仏像で表現しようとしたものと曼荼羅で表現しようとしたものが実は同じなのではないかと考えるようになりました。
このことは先のブログでの引用『原殿御返事』からも明らかかと思います。


つまり四菩薩の造立を伴った「久成の釈迦仏」を意味するのであれば、それは日蓮と日興の中では曼荼羅において表現しようとしたものと同義なのであり、そう考える時、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書328ページ)の意味が明瞭になってくると思います。







ハーバード大学の学生新聞における評価。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて池田氏が1991年9月26日にハーバード大学ケネディ政治大学院ウィナー講堂で「ソフトパワーの時代と哲学」と題した講演を行なっていることは、多くの学会員さんならよくご存知のことと思います。
今回はその講演に対して、ハーバード大学の学生新聞である「ハーバード・クリムゾン」がどのような評価をしているのか、簡単に紹介してみたいと思います。






A Japanese religious leader toured the Harvard campus and paid a courtesy call to President Neil L. Rudenstine yesterday. 

「一人の日本の宗教指導者がハーバードのキャンパスに赴き、ルデンスタイン学長を表敬訪問しました。」


Daisaku Ikeda, the founder of Soka University in Tokyo, met with Rudenstine for about 20 minutes yesterday afternoon. 

池田大作は東京・創価大学の創設者であり、昨日の午後、ルデンスタインと20分間の会見を行った。」


Ikeda, president of the world peace organization Soka Gakkai International and author of several books on Buddhism, civilization, life and peace, was accompanied by a large entourage of followers, assistants, photographers and security personnel. 

「世界の平和機関である創価学会インターナショナルの会長であり、仏教や文明、また生命や平和についていくつもの本の著者でもある池田は、多くの取り巻きの支持者やアシスタント、またカメラマンや秘書を同伴していた。」


According to University Marshal Richard M. Hunt, Rudenstine and Ikeda discussed "the affairs of the world" and other topics. 

「マーシャル大学のリチャード・ハントによれば、ルデンスタインと池田は"世界の情勢"やその他のトピックについて議論をした。」


Hunt said that Ikeda knew a lot about Rudenstine's background. "He had obviously done his homework. I think Neil was a little surprised," Hunt chuckled. 

「ハントが語ったところによれば、池田はルデンスタインの思想的背景をよく知りあげていて、『彼は明らかによく予習をしているよね。ニールはちょっと驚いてたよ。』と含み笑いをした。」


"He's very impressive man. He's very quick-witted," Ford Foundation Professor of International Studies Emeritus John D. Montgomery said of Ikeda after the meeting. 

「『彼はとても印象深く、頭の回転が早かった。』インターナショナルスタディーズのモンゴメリ教授は池田と会った後、池田についてそう言った。」


Montgomery said Ikeda was planning on building a Soka University campus on 600 acres of land he purchased in California. 

モンゴメリが語ったところによれば、池田はカリフォルニアに購入した600エーカーの土地に創価大学キャンパスを建設することを計画していた。」


Ikeda was scheduled to deliver a speech at the Kennedy School of Government at 6 p.m. last night.

「池田は昨夜、午後6時にケネディ政治大学院でスピーチをすることを予定していた。」



さらりと一読した印象では、ハーバードでの講演内容については、なんら省みられていません。

つまり少なくともハーバード・クリムゾンでの学生たちの印象は、「宗教指導者が講演をしに来た」という程度のものであり、その内容について、学生たちはなんら興味を抱いていないということです。

ややシニカルにもとれる記事ですが、学生たちの多くは池田氏の講演に対してさして興味もなく、印象を残さなかったということなのでしょう。





『百六箇抄』はどこに伝わったのか。





いつもみなさん、お読み頂き、ありがとうございます。最近ますますアクセスが増え、毎日毎日数千人の方にお読み頂き、本当に感謝します。



さて今回は血脈抄とも呼ばれる『百六箇抄』の写本の問題です。果たしてこれが大石寺に伝わっている血脈の証拠と言えるのかということを検証してみたいと思います。



『百六箇抄』は後世の加筆が多く、どこまでが本来の『百六箇抄』なのか判然としませんが、加筆部分の末尾の内容を全面的に信用するならば次のように相伝されてきたと考えられます。


弘安3年1月11日、日蓮から日興へ。
正和元年10月13日、日興から日尊へ。
康永元年10月13日、日尊から日大・日頼へ。



要法寺日辰の『祖師伝』には「日尊伝」の項で、日尊から日大と日頼に付嘱したとされていますから、これは『祖師伝』の記述とも一致します。
さらに大石寺日精の『富士門家中見聞』で『百六箇抄』の血脈相伝が日興から日目、日大、日順、日尊の4人に付嘱されたと書かれています。
『百六箇抄』の実際の真蹟については『二箇相承』とともに北山本門寺にあったとされています。古写本については要法寺日辰、妙本寺日我、大石寺日俊のものが現存します。





上記の点を総合すると、以下の推論が成り立つかと思います。




1、『百六箇抄』は真蹟が北山本門寺に存在したとされており、また古写本は京都要法寺保田妙本寺、富士大石寺の複数に伝わっている。

2、従って真蹟がかつて現存した場所を基準にするなら、日興の血脈は北山本門寺に伝わっていることになる。

3、仮に『百六箇抄』の末尾の加筆部分を真蹟と判断するならば、日興の血脈は日尊以降、京都要法寺に伝わっていることになる。

4、大石寺17世日精『家中抄』と要法寺日辰『祖師伝』の記述を信用するならば、『百六箇抄』の相伝血脈は北山本門寺、富士大石寺、京都要法寺等の複数の寺に伝わっていることになる。



ということで、『百六箇抄』の相伝血脈というものがいかに対外的に信用性が低いかということがよくわかるかと思います。
大石寺ではなくて、京都要法寺とか北山本門寺相伝血脈が考えた方がまだ自然かなと私などは思います。














利根と通力とにはよるべからず。

いつもみなさん、ありがとうございます。




さて日蓮の『唱法華題目抄』には「利根と通力とにはよるべからず」(御書16ページ)とされているにもかかわらず、どういうわけだか、創価学会員さんも大石寺法華講さんも顕正会さんもみーんな「現証」で語りたがります。


だから私には「本部幹部会の大晴天」とかを祈る、その感覚が理解できません。
そういう超常現象みたいなもので宗教の浅深を計ることは私にはどうでも良いことなのです。



そんなことを言ってしまえば、じゃあ原田会長さんがメキシコに行った後に地震が起こりましたから、じゃあこれは「仏罰」かと(笑)。
顕正会さんが「広宣流布をしないと北朝鮮からミサイルが飛んでくる」と言ってるのと、論理的にはさして変わらない(笑)。



いい加減、そういう感覚をやめにしませんか?
私は宗教の浅深を、単なる現証面から判断することを好みませんし、そんなことをしていればいずれ現証面から批判されることになります。



現証というのは、結果としてそうなっているだけのもので、それだけを根本にするなら、別段、文献的な検証など必要ないことになるでしょう。







日興は仏像本尊を認めている。





いつもありがとうございます。
さて今日の記事のポイントは、以前に「日蓮本仏論について」という記事ですでに指摘したことですが、実は日興の『原殿御返事』を見る限り、曼荼羅ではない仏像造立による本尊を認めているという点です。



日興の『原殿御返事』から引用してみましょう。なお『原殿御返事』は創価学会版の通常の御書にはなぜか収録されておらず、編年体のものにだけ収録されています。



「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」
(『編年体 日蓮大聖人御書』1732〜1733ページ)



簡単に概要を述べますと、

日朗が日蓮滅後に一体仏の像を安置したのを見て、波木井の原氏もまた釈迦像を造立しようとした。」

「日興はこれに対し、一体仏の造立は始成の釈迦仏ゆえに不可とし、四菩薩を伴った仏像の造立ができるまでは、日蓮御筆の紙幅の曼荼羅を以って仏像の代わりにしてもなんら問題はないとした。」



ということです。


つまりここでの日興の思想は仏像本尊を否定していないことがわかるかと思います。
むしろそれが始成の仏でなく四菩薩の脇士を伴う久成仏なのであれば、それは曼荼羅の代わりとできるということが、ここでの日興の趣旨であると思います。
『報恩抄』における「本門の教主釈尊」とはまさにこのことを述べているのであり、それゆえ日蓮系教団では紙幅の曼荼羅とともに仏像の造立形式も認めているという事実があります。
ですから『報恩抄』における「本門の教主釈尊」を「末法の御本仏・日蓮大聖人」とする立場はやや牽強付会に過ぎると私は考えています。





正本堂の意義の両者の共通理解。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて昨日書いた「顕正会について」の続きを書きたいと思います。今回は「正本堂の意義づけについて創価学会と妙信講が同意に至った、その共通理解について」です。浅井甚兵衛氏と浅井昭衛氏、そして和泉覚氏たち当時の創価学会首脳部が互いに何を認めて、何に同意したのかという点ですね。
すでに大石寺正本堂は解体されて存在しませんから、まあどうでもよいことなんですが(笑)、いちおう教義的な同意事項について書いてみます。



先日書いたように、妙信講(顕正会の前身)は正本堂建立に対して昭和45年9月11日にいったん創価学会と和解して同意しています。

昨日の記事から引用してみますと

正本堂は三大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない。」

ということです。


当時の私と私の父らの理解ではこういうことでした。


1、正本堂には「おしきみ」を置かない。「おしきみ」は広宣流布が達成された時に供えられる。
2、広宣流布の時になると、大石寺は「本門寺」に名前が変わる。
3、その際に正本堂は「戒壇堂」になる。
4、広宣流布がされた、その時の法主は第3祖日目の再誕である。


ということです。
なんともはや、信仰をされていない方から見れば不思議な教義ですけど(笑)、当時の私と私の両親はそのように考えていました。



実は昭和40年頃まで、当時の池田会長は大石寺への「正本堂」建立寄進とは別に「戒壇堂」を考えていました。つまり当時の池田氏の理解では「正本堂」は「戒壇」ではなかったのです。


ところが、その後、細井日達氏が『百六箇抄』の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」(御書867ページ)ということから、「正本堂」が将来的に広宣流布された時に「本門の戒壇」になるという解釈をしたんです。


まあそういう理解を当時していたわけで、顕正会はその教義について昭和45年にとりあえず共通の見解に立っていたのだと言えます。







顕正会について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は今まであまり書いてこなかった「顕正会」という宗教団体のことを書いてみようと思います。
創価学会大石寺もあまりお勧めできない宗教ですが、顕正会もまあすごいところです(笑)。


正式名称はいろいろ変転していますが、現在は「冨士大石寺顕正会」となっています。ただ大石寺の66世日達に破門されていますので、大石寺とは基本何の関係もない団体です。


彼らに特徴的なのはやたら終末論的な思想を吹聴することです(笑)。
例えば「広宣流布がされなければ日本は必ず滅ぶ」とか「北朝鮮からミサイルが飛んでくる」とか(まあ最近、本当に飛んで来ているので、浅井会長の予言が当たってるのかも・笑)、まあそんなことをためらいもなく言ってのけます。


で、彼らの宗教的な目的なんですが、
国立戒壇」の建立です。


顕正会は、真蹟不存の『三大秘法抄』を原理的に解釈しまして、国民全員が入信して国会の議決をもって「国立戒壇」を日本に建立することこそが「日本の国難」を救う唯一の方法だと主張しています。



もともと彼らは大石寺講中の一つで「妙信講」と呼ばれていました。この妙信講の初代講頭が浅井甚兵衛さんという人です。
彼らはもともと大石寺に「正本堂」を建立供養することに賛成し、実際に供養もしていました。例えば昭和40年5月25日に妙信講の講演・総幹部会で浅井氏は次のように発言しています。


「今回、総本山において御法主上人猊下の御思召より、正本堂が建立されることになりました。妙信講も宗門の一翼として、講中の全力を挙げ、真心を込めて猊下に御供養をさせて頂くことになりました。」


で、その後、彼らは正本堂の意義づけについて創価学会に対して異論を唱え、その後いったんお互いは同意します。昭和45年9月11日に創価学会との和解が成立した報告書を紹介してみます。


「御報告
お互い信者の間で話し合いの結果、誤解がとけ、相互に友好的な理解と合意に達したので、御報告申し上げます。
一、正本堂は三大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定しない。
ここに猊下の御宸襟を悩まし奉ったことを深くお詫び申し上げるとともに、今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進すること。お誓い申し上げます。
昭和四十五年九月十一日
浅井甚兵衛
浅井昭衛         」



というわけで、両者は一度教義的に同意しているので、別にいがみ合う理由は何もないんですけど(笑)、顕正会はどうしても自己主張されたいみたいで、未だに「国立戒壇」という教義を主張されています。
皆さんもご存知かと思うんですが「国立戒壇」とは本来、田中智学らの国柱会で主張されていた教義です。まあ顕正会はそれを引っ張ってきて、自教団のアイデンティティとされているのでしょう。