いつもみなさん、ありがとうございます。
さて昨日書いた「顕正会について」の続きを書きたいと思います。今回は「正本堂の意義づけについて創価学会と妙信講が同意に至った、その共通理解について」です。浅井甚兵衛氏と浅井昭衛氏、そして和泉覚氏たち当時の創価学会首脳部が互いに何を認めて、何に同意したのかという点ですね。
昨日の記事から引用してみますと
ということです。
当時の私と私の父らの理解ではこういうことでした。
ということです。
なんともはや、信仰をされていない方から見れば不思議な教義ですけど(笑)、当時の私と私の両親はそのように考えていました。
ところが、その後、細井日達氏が『百六箇抄』の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」(御書867ページ)ということから、「正本堂」が将来的に広宣流布された時に「本門の戒壇」になるという解釈をしたんです。
まあそういう理解を当時していたわけで、顕正会はその教義について昭和45年にとりあえず共通の見解に立っていたのだと言えます。