気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『摩訶止観』と『次第禅門』





いつもありがとうございます。


さて天台智顗の『摩訶止観』は法華三大部の一つなんですけど、実は内容的には一心三観、止観の坐禅の行法を説いた書なんですよね。
だって本来、『摩訶止観』の思想の底にあるのは智顗の初期の著作である『釈禅波羅蜜次第法門』(通称『次第禅門』)なんですから。



よく日蓮正宗創価学会の方が使われる「三障四魔」という語は、本来は止観の修行の最中に起こる心理的な現象のことでして、そういう意味では智顗の『摩訶止観』の「三障四魔」という語を創価学会日蓮門流は曲解して勝手に使っていると言われても致し方ないんです。


天台智顗の当時の中国仏教は膨大な量の経典が次々と翻訳されて、これらをどう理解するのかという解釈学に重点が置かれていました。
ところで仏教の基本とは戒定慧の三学を学ぶことなのであって、この三つが揃わなければ基本仏教とは言われないわけです。


天台智顗はそういった課題から『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』)を著します。
『次第禅門』は智顗の著作でも最初期のもので講説の年代を確定することができないのですが、どうも智顗が31〜38歳の頃までに金陵(現在の南京の瓦官寺)で講説されたと伝えられているようです。


智顗はこの中で禅の体系を明らかにしようとして『大品般若経』と『大智度論』を依拠として禅の実践論を説いていきます。
この中で重要なことは、智顗が禅の体系を大きく四つに分類した点です。
それは

①観禅
②錬禅
③熏禅
④修禅

であるとされています。智顗はこのように実践法門を『次第禅門』において体系化し、実際に当時の瓦官山や天台山ではこれらの修行法が実践されていたと考えられています。


この『次第禅門』については南岳相伝と言われています。南岳というのは南岳大師・慧思という人物で、この人は天台大師智顗の師匠にあたる人です。
慧思は早くより現実世界を末法濁世であると考え、末法無仏の世を救済する経典として『大品般若経』と『妙法蓮華経』を根本とした教学と実践の法門を確立しました。結構強烈な主張もあったようで生涯に4回ほど毒殺されかけています。


『次第禅門』における基本的な禅の修行法は、すでに慧思の著作に説かれていますから、天台智顗は禅観の基本的な立場や『大品般若経』や『法華経』の重要性を実は慧思から学んだのです。


『次第禅門』で菩提心の表明として説かれた中道正観、諸法実相、大悲心、四弘誓願はそのまま後の『摩訶止観』に引き継がれていきます。


智顗は『次第禅門』において禅波羅蜜という語で全仏法の実践体系を総括したのですが、これが『天台小止観』になると「止観」という語が用いられ、これが『摩訶止観』に引き継がれていくことになります。
『摩訶止観』では『次第禅門』で述べられたような禅法の体系は一切省略されています。
その代わり『摩訶止観』では正修観法の十境として1番目の陰入界境から10番目の菩薩境までが説かれていきます。


私たちの心には様々な状態があり、いろんなものに私たちは毒されて迷わされていくものです。結果的に言えば悟りなどないのですが、ないとしてしまえば目標が設定できない。だからこそ仮にあるように説かれていくわけです。諸種の心を私たちが作り、自らが作った心に毒されていく。これをどう対治していくかということが智顗の重要な命題であったのでしょう。
そしてここから智顗が独自の一念三千説を展開していくことは日蓮門流の方ならご存知のことでしょう。


『摩訶止観』は三種止観の最後の円頓止観というものを明らかにした書物です。円教というのは具体的に言えば『法華経』です。つまり『摩訶止観』は『大品般若経』を捨てて『法華経』の実践行として説かれたものなんですね。


同じ智顗の著作でありながら『次第禅門』はあくまで煩悩を対治するということに主眼が置かれています。それに対し『摩訶止観』は人間の中には煩悩もあるし、いろんなものが本質的に心具されているんだということが説かれます。それを本具しながら実相という方向性を説いたものが『摩訶止観』なのです。


ですから私の考えている日蓮思想の再考は、天台智顗の「三千不可思議境」という止観の修行として題目を唱える場を考え直すことに主眼が置かれています。
創価学会日蓮正宗での唱題行というのは、止観の場などとは到底言えず、単にひたすら題目をあげてお願いをするだけのおまじない信心になっています(笑)。
私の立場はそうではなく、一念三千の観を観じる修行の場としたいと考えているだけなんですね。
もちろんそれは私の思想なのであって、他人が真似をすればよいというものでもありません。



釈迦は大パーリ・ニッバーナ経において、自らと法のみをたよりにすることを述べ、他者をたよりにしてはならないとしています。
僧侶とか住職とか学会幹部とか信濃町の職員とかそんな人に仏教を教わる必要なんてないですし、教えの正当性を担保してもらう必要もありません。


一心三観を通して三千不可思議境を観るために、私は題目をあげる場の意義を考え直しています。
ただそれについてここに具体的に書いてしまうと、いろいろ誤解する人も出てきますし、私の信仰の方法を絶対と思ったり勘違いされる方も出てくると思います。だから書かないでおくことにしましょう。


やや飛躍しますが、日蓮の考えた唱題行とは源信称名念仏純化させたものであって、法華経の題目のもとに諸教の修行をまとめようとしたものです。日蓮がそれに成功したなんてもちろん思っていませんが、少なくとも日蓮最澄の後継者の自覚からそれを成そうとしたことは言えるのではないでしょうか。




参考文献:
大野栄人「中国天台における禅から止観への思想的展開」『禅研究所紀要』25号所収、1997年





日蓮本仏説の萌芽。




いつも皆さんお読み頂き、ありがとうございます。


さて大石寺や現在の創価学会が唱える日蓮本仏説が明確に言われ始めるのは、大石寺26世堅樹日寛以降のことです。
それ以前に日蓮本仏説と言われるものが存在したのかと問われれば、その萌芽と言うべきものがあったと思いますが、まだ明確なものではありません。
大石寺9世日有は『有師化儀抄』で次のように述べています。


「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍テ今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我レ等根性には対せらるべからざる時分なり、仍テ方便品には若遇余仏便得決了と説く、是レをば四依弘経の人師と釈せり、四依に四類あり今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思ひ合ハすべし。」
(『有師化儀抄』富士宗学要集第1巻64ページ)


日有には宗祖日蓮を「本尊」とみなす思想があったことがわかります。同時に日蓮を本尊としながらもまだ日蓮が本仏であるという明確な主張はここには見られません。
ですから私は大石寺9世日有の頃にはまだ明確な日蓮本仏説は存在しなかったと考えています。


他山はどうでしょう。例えば保田妙本寺・日我の『化儀秘決』から引用してみます。


「御大事御抄等の内意、代々の置文等を以ッて之を勘ふるに、中央に題目、左右に釈迦多宝を遊ばす、文の上は在世の様なれども末法の釈迦とは日蓮なり多宝とは日興なり題目とは事行の本尊なり、謂ハく十界互具して人法一個する題目なり、境母法身の日興は左に居し智父報身の日蓮は右に居し境智冥スる時中央の漫荼羅なり、然る間、日蓮の魂も題目なり日興の魂も題目なり、唯我与我、唯仏与仏乃能究尽とは爰元なり、末法一切衆生の父は日蓮母は日興、我レ等当躰蓮華仏となる種子は題目、此ノ種子を高祖は授け給ふ日興は受け取リて九界惣在して是レをはらみ給ふなり、其の種子は境智冥合定恵和融して父母をはなれざる処が中央の題目なり、其ノ題目成仏の子と生るゝ時は日目と習ふなり下種とは是なり」
(『化儀秘決』富士宗学要集第1巻300ページ)


妙本寺の日我は「末法の釈迦とは日蓮なり」としています。
つまり日蓮本仏説は大石寺よりもむしろ他山の保田妙本寺の方で先行していた教義と考えられます。

今の私の理解を図示すると以下のようになります。

大石寺
日興(1246〜1333):釈迦本仏
日目(1260〜1333):釈迦本仏
日道(1283〜1341):釈迦本仏、御伝土代
日有(1402〜1482):日蓮本尊説、化儀抄
日精(1600〜1683):御影堂建立
日寛(1665〜1726):日蓮本仏

【妙本寺】
日我(1508〜1586):末法の釈迦は日蓮


つまり日蓮本仏説は大石寺よりもむしろ保田妙本寺が先行していまして、大石寺日有の日蓮本尊説、また日精の御影本尊などが結びついて日寛の日蓮本仏説という教義となったと考えられます。



追記:
以前、こんな記事を書いています。

「本尊の奉安様式」

日蓮正宗で御本尊の奉安様式が複数ある理由はなんとなくわかる気がします。
要するに17世日精の頃に御影堂が建立され、その際に日蓮=本尊観から一幅一体式の本尊の奉安をしたのでしょう。御影が祀られるのは御影本尊説、つまり9世日有以来の日蓮本尊説に則っているのです。
それが後世、日寛教学が誕生して御影本尊説と教義的な齟齬が生じたのですが、それについては無理な統一をせず、そのままで来てしまったというのが実態なのでしょう。




日蓮の真言批判の問題点。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮の思想に真言が与えた影響について、このブログでは度々指摘しているところです。
 
 
「他宗批判と諸教包摂ということ」
 
 
日蓮が若き日に真言の徒であったことは諸抄から明らかです。『聖愚問答抄』でも「予も始は大日に憑(たのみ)を懸けて密宗に志を寄す」(創価学会版御書484ページ)と説かれていますし、何よりも『守護国家論』では明快に「法華真言」と法華と真言とを一体のものとして論じていることからも明らかです。
 
 
 
ところで、文永後期から日蓮の熾烈な真言批判が始まります。この日蓮真言批判なのですが、やや教義的に説得力に欠け、むしろ現証上の批判に終始することが少なくないんです。
日蓮の念仏批判は教義的にまだ理解できます。つまり法然の『選択集』において法華経を棄てて念仏のみとしたのは、これは恵心僧都源信の『往生要集』と異なりますから、本来の恵心僧都における称名念仏という視点から法然の選択念仏を批判するのもわかります。
 
 
ところが、日蓮真言批判はどうにも私には説得力に欠けます。例えば大日への批判は要するに法報応三身不相即を挙げるのですけど、そもそも即身成仏という語そのものが真言の用語ですし、これだけ読むと日蓮はちゃんと空海の『秘蔵宝鑰』等を読んでいるのかやや疑問になります(ちなみに『清澄寺大衆中』で日蓮は『秘蔵宝鑰』と『弁顕密ニ教論』を手に入れるように依頼しています)。
 
 
それ以上に問題なのは、日蓮真言批判が現証面や罰論を強調した批判になっているところです。この点について小林正博氏も「(日蓮の)真言批判の最大の特徴は、事相批判であろう」としています。
つまり「善無畏一行の横難横死」とか「弘法・慈覚の死去の有様」とか「即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし」とか現証上の罰とか凶相をもって批判をするのが日蓮真言批判の特徴なのです(『星名五郎太郎殿御返事』御書1208ページ)。
 
 
私は日蓮の他宗批判について、その現証上の凶相批判については否定されるべきだと考えています。不往生とか臨終の相とかを根拠に批判されても説得力に欠けるというものです。
 
 
 
 

後継者は日目か日代か。




いつもお読みいただき、ありがとうございます。
さて日興滅後に大石寺では『日興跡条条事』を出してきて日目への相伝があったことを主張していますが、反対に西山本門寺では『日代八通譲状』を出してきて日興から日代への相承があったということを主張しています。実はこのことをあまり創価学会の方は知りません。


大石寺の『日興跡条条事』も西山の『日代八通譲状』もどちらもその信憑性については眉唾物で、偽書の疑いを払拭できていません。


で、第三者的に冷静に考えてみると、日目も日代も優れた日興の後継者であって、重須は日代に、大石寺は日目に、優秀な二人に任されたと考えるのが一番妥当な判断かと思います。


というのも、日興が亡くなった時の記録で『富士門家中見聞上』には以下のような記述が見られます。


「初七日には日代の御供養重須に於て之を修し日目の御説法あり、一百箇日の御仏事日目大石寺に於て修し給ふ御説法は日代なり御伝」
(『富士宗学要集』第5巻179ページ)


これを以て見ると、日目・日代どちらも日興の後継であり、それぞれが導師となっている事実を示しています。ここから考えるとどちらかが「唯授一人」の付属者ではないことがわかります。恐らくは「唯授一人」も後世に形成された教義なのでしょう。
事実、大石寺66世日達の葬儀も通夜も初七日も、67世日顕が導師を勤めています。ここから考えると日目と日代が同等に導師を勤めていることは明らかに現在の大石寺とは趣きを異にしています。






追記:
ちなみに大石寺4世日道は実は日興の葬儀に参列していません。このことからも大石寺の唯授一人という教義が後世に形成された証左とも言えるでしょう。






未来部に未来はない。






いつもみなさん、閲覧いただき、ありがとうございます。
創価学会の未来部の減少ぶりは本当にひどいものですが、あるブログ記事を見て改めて衝撃を受けました。


「未来部合計20万人」(蓮の落胤創価学会、話そうか)


この方も私と同様、非活メンバーの一人ですが、ここまでデータを提示されるともはや創価学会の未来部に未来などないということがよくわかりますね。
以前こんな記事を私も書いています。


「未来部って」


蓮の落胤ブログ主さんの意見とほぼ同じですが、遅かれ早かれ、日本の創価学会は滅びます。組織維持のために躍起になって壮年婦人部は努力しているかと思いますが、あらゆる努力はもう手遅れです。
東京五輪が終わって、2025年頃が一つのターニングポイントになるでしょう。団塊の世代が75歳くらいになる頃です。さすがに組織の活動家のメインが75歳を越えるようになったら、もはや組織人事も入れ替えないとダメでしょう。


聖教新聞を配る人もいなくなりますし、白ゆり長やB長のなり手も不足してくるでしょう。
現状で75歳を越えた白ゆり長がすでに出てきていますから、これがまた一層深刻になってくるはずです。
男女青年部と同様に地区の壮年、婦人でも地区役職が立てられない人材難に陥ることでしょう。


もはや日本の創価学会組織の壊滅は時間の問題です。この現実を受け止めることが大切でしょうね。




日興『三時弘経次第』を読む。






いつもありがとうございます。


日興筆とされる『三時弘経次第』ですけど、実際には真蹟は存在していません。堀日亨氏は『三時弘経次第』の内容が日興正筆の『本門弘通事』と同趣旨であるとして『富士宗学要集』に同編を続けて収録しています。このことから『三時弘経次第』が日興真撰である蓋然性は高いことになります。堀日亨氏と同様に宮田幸一氏もこの点について同書の信憑性に一定の評価をしています。
内容的には天台宗戒壇を迹門とし、法華の戒壇を本門とするものです。
日興正筆の『本門弘通事』と内容が同趣旨であることから考えても、同抄は日興の当時の思想を伝える書物と判断してよいと私は考えています。実際、堀日亨氏と宮田幸一氏も同じ判断をしています。
実際にどんなことが書いてあるか、全文を引用してみましょう。



「一仏法流布の次第
一正法千年流布  小乗  権大乗
一像法千年流布  法華  迹門
末法万年流布  法華  本門
末法に入つて本門を立てて国土を治む可き次第。
桓武天皇伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てて像法を利益し国土を護持する事之を図す。
迹門の寺  付属の弟子は  薬王菩薩  伝教大師
比叡山  始成の釈迦仏  迹化垂迹の師檀  像法。
日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てて末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺  付属の弟子  上行菩薩  日蓮聖人
冨士山  久成の釈迦仏  本化垂迹の師檀  末法
天照太神の勅に曰く、葦原千五百秋の瑞穂の国は是レ子孫の王たる可き地なり、宜しく就て治む可し。
孝経に云はく、先王正直の徳を行ふときんば四方の衆国皆法則に順従するなり。」
(日興『三時弘経次第』堀日亨編『富士宗学要集』第1巻相伝部49〜50ページ)



最澄戒壇を迹門の戒壇とし、日蓮戒壇末法万年の戒壇、本門と配するという観点で書かれており、日興らしい思想だと考えられます。
そしてこの中で書かれているように「本門の寺」における「付属の弟子」は「上行菩薩」としての「日蓮聖人」です。どこにも「御本仏」とも「久遠元初自受用報身如来」とも書かれていません。


「本門の寺」において日蓮の立場が法華経で釈迦より付属を受けた上行菩薩であるとするなら、日蓮本仏説が見られることの方がむしろ不自然です。事実ここでは日蓮本仏説など微塵も見られません。もしも日興に日蓮本仏説があったとするなら、迹門の戒壇を破って本門の戒壇を富士山に建立すると主張している文書で、日蓮聖人の立場を「上行菩薩」と書くはずがありません。しかも次の行には「久成の釈迦仏」と書いて釈迦本仏説を明確に打ち出しています。


従ってここから考えても、『三時弘経次第』を真撰とする立場に立つならば、日興の中に日蓮を本仏とする思想は当時から存在しなかったことが容易に推察できるかと思います。









転輪聖王のこと。





いつもありがとうございます。
今日のテーマは「転輪聖王」(てんりんじょうおう)についてです。



転輪聖王」って知ってます?
転輪聖王とは武力を用いることなく正法をもって全世界を統治する理想の王のことです。日蓮曼荼羅本尊にも書かれることも多いです(現在の創価学会が授与している日寛書写本尊に転輪聖王は書かれていません)。


全部で4種類ありまして、
鉄輪聖王(てつりんじょうおう)
銅輪聖王(どうりんじょうおう)
銀輪聖王(ぎんりんじょうおう)
金輪聖王(こんりんじょうおう)
の4人がいるとされています。


で、実は日蓮正宗にはもともと広宣流布が達成される時に、この転輪聖王のうち最高位にある金輪聖王が出現するという変な言い伝えがあるんですよ(笑)。
例えば昭和48年6月号『大日蓮』での細井日達氏の説法ではこう述べられています。


「この人間の中で、一番最高の人というのは、転輪聖王だと。転輪聖王がこの世に出現する時は、大海に優曇華の華が咲く。また木が生えて、花には立派な実がなる。
で、この一番転輪聖王の上の人を金輪聖王と言い、金銀銅鉄という四種類の、四種類と言っては申し訳ないけれども、四つの転輪聖王が、鉄輪聖王・銅輪聖王・銀輪聖王・金輪聖王がいる。
で、広宣流布の時は、この金輪聖王が出現するのである。だから広宣流布の時は、この金輪聖王が出現して、世の中は平和になる。すべての人をこの平和に導くんですから、いかなることも自由自在である。妨害するものも信服し、自らは十善を行じて大果報を得ておる。
そこで妙法蓮華経はいつ広宣流布するんだという問題が起きる。最後の本当の広宣流布の時はこの金輪聖王の出現にある。その時に戒壇の本尊を中心として、みな世界平和を祈り、共に世界平和になって、お互いに我此土安穏、この土は常に安穏であっていただきたい。それが法華経の信心である。我々の願いである。妙法流布の根源である。広宣流布のその時の王様はどういう王様なのかそれは分らんけれども、名前は金輪聖王という資格に於て出現しなければならない。」
細井日達・説法「法蓮抄」、『大日蓮』昭和48年6月号)


ところで、この日蓮正宗の謎の教義なんですが(笑)、創価学会もこれと同じ考え方に立つようです。少なくとも90年代くらいまでは創価学会もこの「転輪聖王」の考え方をとっていました。池田氏のスピーチから引用しましょう。


「正義によって世界を平和と繁栄に導くーーこれが仏法の目的である。
それをなしゆく理想の指導者像を『転輪聖王』と説く。(中略)
この転輪聖王のなかでも最高の王者を金輪聖王という。
金輪聖王の影響力は、東西南北、全世界に及ぶ。
現代的に言えば、武力を使わない。権力などのハード・パワーを用いない。人々を圧迫しない。
『人格の力』『哲学の力』『芸術・文化の力』というソフト・パワーで、信服と尊敬を勝ち取っていくのである。
初代会長・牧口先生が提唱された『人道的競争』の理念も、その精神は同じである。
しかも、他の銀輪聖王などは、自分のほうから相手の国へ行く。
これに対し、金輪聖王は、自分が行かなくても、世界中から慕われ、人々が集まってくるという王なのである。
光栄にも、今、創価学会は、世界の最高峰の知性が千客万来である。」
池田大作SGI総会・本部幹部会・中部総会でのスピーチ、1998年11月17日、聖教新聞


池田氏はここで、創価学会そのものこそが「金輪聖王」なのだとしています。
かつて原理主義的な一部の最高幹部たちは「池田先生こそ『金輪聖王』なのだ」と主張していました。今もそうなんでしょうか。



まあ、どんな教義を信じても個人の自由ですけど、私にはこんなお伽話みたいな教義はどうでもいいです(笑)。
百歩譲って「池田先生が金輪聖王だ」として、果たして池田氏の登場によって世界平和って進んだんですかね(笑)。
池田氏が金輪聖王なら、細井日達氏の説法によれば「金輪聖王の出現」は「広宣流布の完璧の時」なのだそうですけど。
今、広宣流布って「完璧」ですかね。
地域組織の青年部員など絶滅危惧されている感じが私にはするんですけどね。