龍樹(ナーガールジュナ)の主著と言えば『中論』です。"八宗の祖"と呼ばれる思想家であり、
大乗仏教運動は彼がいなければ成り立たないというほどの存在。「第二の釈迦」とも呼ばれた人です。
その彼の思想を語るのに多くの人は『中論』をもって語ります。私もそうです。彼の中観の思想は非常に哲学的であり、
説一切有部の権威の欺瞞制を徹底的に暴露した主著と言って良いでしょう。
ところがその龍樹が晩年に『十住毘婆沙論』という書を著しています。この書はいわゆる『十地経』の論釈書とされています。
『十地経』の論釈として有名なものは世親(
ヴァスバンドゥ)の『十地経論』と、この龍樹(ナーガールジュナ)の『十住毘婆沙論』になるでしょう。
『十地経論』における世親はその後『十地経』から『
無量寿経』に向かいます。これは世親の思想が模索段階にある頃の述作であって、そのための『十地経』の解釈と考えられます。
ところが『十住毘婆沙論』における龍樹は晩年の龍樹です。主著とされる『中論』も『
大智度論』も書いた著者が、哲学的な営為をほとんどここでは展開せず、易行道として
阿弥陀仏の信仰に向かうという本論の趣旨は俄かには首肯し難いところがあるでしょう。
事実、多くの研究者や僧籍にある方、また宗派等は意図的に『十住毘婆沙論』について語らないことも多く、また『中論』の思想を龍樹の中心説とする方からは『十住毘婆沙論』を
偽書として考える人もいるほどです。
けれど私にはここでの龍樹の思いがよくわかる気がするんですね。
『中論』における龍樹は哲学者としての龍樹であり、釈迦の本来の思想を取り戻そうとする使命感と知性に溢れています。読んでいると龍樹の論敵を批判する知性の鋭さを感じます。
しかし『十住毘婆沙論』では一転、彼は仏教に対する知識がない人たち、また思想的に迷いがある人たち、仏教に全く縁がない人たち、そういった人たちをどうやって救うのかという使命感を行間から感じます。
もとより釈迦の本来の教えとは「人がどう生きるべきか」を問うものでした。つまりあらゆる哲学的営為を積み重ねてみても真実に至ることはないし、それらには意味がないと。それよりも我々はどう生きるべきかという問いを突きつけたのがまさに釈迦という存在でした。『中
阿含経』にみられる「毒矢の喩え」など最たるものでしょう。
この『十住毘婆沙論』における龍樹の姿勢にはそのようなものを感じます。ここには
大乗仏教の徒としていかに娑婆の苦海に沈む
衆生を救っていくのかという龍樹の使命感が強く溢れているんですね。
仏の教えが一切空を説くだけのものであるとするなら、画竜点睛を欠くものであって、それは人が生きるべき道とはならないわけです。
真実は真実のままで認識することはできないものです。それはまさに仏の
智慧であって、そこに至ることは難行道です。
だとすれば方便として導くことはできるわけで、龍樹はここで徳の高い人たちのために『十住毘婆沙論』を書いていない。そうではなく苦しみ惑い、真実の法もわからない悩み深い
衆生のために論は著され、そういった人たちを救おうとしています。
大切なことは生きることであって、そのために一切空を暴露した龍樹がここで
衆生の救済のために
阿弥陀仏の功徳を説いています。
このように
衆生をいかにして救済していくのかという考え方は実は
日蓮の思想にもみられるものです。
例えば『唱法華題目抄』では確かに天台、伝教の修行の根幹は一念三千、一心三観なのですが「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」としました。つまり一念三千の観がわからない
末法の
衆生のために
法華経の題目という修行法をここで
日蓮は説いています。
また同時に
日蓮の門下や弟子たちにあてた手紙には細やかな配慮や精神的な暖かさを感じる、情熱的なものも多くみられます。このへんはきっと
創価学会の方や
日蓮正宗の信徒の方も理解できることでしょう。
確かに
日蓮の魅力というのはその人間的・情熱的なところにあるのであって、書状に時折見せる
日蓮の優しさ、励まし、厳しい叱咤などは
日蓮の強い魅力となっていることは周知のことでしょう。
つまり
大乗仏教の徒として両輪ともに必要なものがあるとするなら、真実の一念三千の空性の喝破と、それを知った上でいかに生きていくかという問いに答えるものでなければならないということです。
仏教には「戒定慧の三学」が必ず存在しなければなりません。
日蓮は「三大秘法」としてこの戒定慧の三学を表現しましたが、その真意とはあくまでいかに人が生きるべきかという問いであり、だからこそ
日蓮は「教主
釈尊の出世の本懐は人の振舞」であるとしたのだと私は思います。
追記:1
龍樹の『十住毘婆沙論』では
阿弥陀の浄土の功徳などが主張されています。であるなら
日蓮の思想と相容れないと考える人も多いでしょう。しかし
日蓮の念仏批判は
法然の『選択集』に端を発するもので、
法然による
法華経否定が
日蓮の念仏批判の根拠となっています。ですから
法華経さえ否定しなければ
阿弥陀仏を称揚することは否定できないはずです。
そもそも『
法華経』薬王品では
法華経の行者の功徳が「
阿弥陀世界への直行」として表現されています。他にも『
法華経』には化城喩品で
阿弥陀仏が登場するわけで、それらを否定するなら自語相違となってしまいますし『
法華経』そのものの否定になってしまいます。「
広宣流布」という語の由来は
法華経薬王品ですから、薬王品を否定するなら「
広宣流布」という言葉も使えないことになります。
日蓮の思想が
末法の
衆生のための
法華経根本戒による
曼荼羅にあり、
法華経の題目により諸教が包摂され「愚者多き世」の
末法でも修行できる方法なのだと仮定すれば、
日蓮の現代における有効性を主張することは教学として可能かと考えています。
追記:2
だいたいのコメントはなんとなく読んで認識しております。引用は遠慮なくしてくださいませ。
剽窃と盗用は遠慮してほしいと思いますが、こんな内容のないブログなので盗用されても大したことはないかもしれません(笑)。まあパクリだけはやめた方がよいかと思います。内容がないのがいろんな人にバレる気がしていますし(笑)、バカとかアホとか批判されるのは私一人で十分です。
「気楽に」と銘打っているように気楽に引用して頂いて構いません。
ただ私の判断で投稿記事を時々編集また削除することがあります。ですからその記事が突然なくなってしまうことがありますので、その点だけご容赦くださいませ。
引用されるなら消される前に早めにアップされることを推奨しておきます(笑)。