気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

気楽非活の一問一答・その2





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は以前にありました、「気楽非活の一問一答」シリーズの第2弾です。


「気楽非活の一問一答」



公明党は正しいのですか?」


私はかつての公明党の行動が全て正しかったのかどうかよくわかりません。私は活動家時代に公明党を支援していましたが、公明党の支持者だからといって毎回の選挙で公明党に投票しなければいけないという理由がわかりません。日本における民主主義とは国民に主権があるとするものなのですから、その時の情勢によってはたとえ公明党の支援者であっても、公明党を支援しないことがあるということ自体は別に批判されるべきことでもないと思います。


「池田先生は正しく、今の創価学会の執行部は池田先生を蔑ろにしていると思います。この点について気楽非活さんはどう思いますか?」


今の創価学会を築いたのは池田大作氏であり、その弟子たちです。信徒が何をどう思うのも自由ですが、池田氏がなんら弟子であるはずの執行部に何も言えず、自身の夫人や子息等を通じてさえ執行部の弟子たちになんら影響力をもたらすことができないとすれば、その内弁慶の姿勢は批判されるべきかと私は思います。あるいは私が仮に間違っていて、池田氏の弟子を自称する方たちが「真の弟子の道」というものを求めるのであれば、単に行動を起こして信濃町を勇気を持って弾劾すれば良いだけのことなのではないでしょうか。
私は現今の創価学会を作った者として池田氏本人に多大な責任があるかと思いますが、何をどう思うかは個人の自由であると思います。


「気楽非活さんは慢心ではないか」


私は自身の人間性に対して、他者がどのように評価されるのも自由であると思います。もちろんあまりに口汚く罵られるのもどうかとは思いますが(笑)、私は自分が単に低俗で罪深い人間であることを自覚しているつもりです。
私はブログで史料を提示して、そこに対する自身の見解も提示していますが、史料を客観的に見れば推論は自ずと一致するものです。ただ史料を見て、それをどう感じるかは個々人の自由でしょう。それを読者に強要する気はありません。私が強調したいのは、史料や史実といった客観的に動かせない事実から推論を組み立てたいというだけのことです。


「気楽非活さんのブログを読んで共感しますが、私はどうしても家に掛けてある曼荼羅本尊を捨てられません。どうしたらよいでしょうか。」


私は人が何かを納得する速度には個人差があると思います。いずれにせよ、人間は何かに執着してしまうものです。私は「一切の執着から離れる」なんて大それたことをブログで書いたりもしていますが、実際に全ての文化記号としての意味を捨て去ることは原理的に不可能でしょう。
阿含経には「筏の喩え」が説かれます。川があったので、旅人は岸辺に流木を集めて筏を作り、川を渡りますが、川を渡った後もこの旅人は筏を持ち歩くべきか否かを釈迦が問いかけます。釈迦は教えが説かれた後は、その言葉に執着すべきではないこと、釈迦自身の言葉であってもそれに執着してはならないことを説いています。
今は何かに執着してしまうこともあろうかと思いますが、そこに執着をしている自分に気付けるのなら、それで良いのではないかなぁと考えます。その上で曼荼羅本尊を拝むのか拝まないのかは自身でその時その時に判断されるべきことなのではないでしょうか。