気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日道は日興の葬儀に参列していない。




いつもみなさん、ありがとうございます。




ところで大石寺開山の日興が亡くなるのは元弘3年(正慶2年、1333年)2月7日のことです。
その約1週間後、2月13日に日目は『日興上人御遺跡事』を書き、日蓮御影と御下文守護について違背のないよう門下に戒めています。
その後、日目は京都の朝廷へ天奏に向かいます。鎌倉幕府は同年の5月に滅亡し、政権は京都に返っていました。その途上、11月15日に岐阜の垂井で日目は亡くなることになります。


つまり
日興没、1333年2月7日
日目没、1333年11月5日
であり、日興と日目は同じ年に亡くなっています。


ところで大石寺の第4世は日道になるわけなのですが、日道は正安元年(1299年)に16歳で日目の弟子となった人物です。当時から日興にも仕えていたことはよく知られています。
日道の『三師御伝土代』によれば、日興が亡くなる前年の1332年1月12日に日道は「日興御遺告」を記録して残したことが知られています。


日道への日目からの相承は1333年の10月と言われていまして、日目が天奏に向かう前に相承を授けたと言われています。


そんな日興・日目に縁の深い日道なのですが、なぜか不思議なことに彼は日興の葬儀に参列していません。



日興の葬儀を記録した文書として日郷の『日興上人御遷化次第』が存在します(日宗全2-270〜278)。これを見ますと、葬列の前陣は日仙、後陣は日目が中心になっています。後陣右の最後尾に日郷(宰相阿闍梨)、日代(伊代阿闍梨)がいるのがわかります。
ところが、後に日目から相伝を受けることになる日道がここには名前が見当たりません。日道は1283年の生まれですから、この時50歳であり、日興が亡くなる前年に日興の御遺告を遺したとされる人物です。その人物がなぜか日興の葬儀に参加していないというのは、不思議な事実であり、非常に興味深いと感じます。