気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

薬草喩品について。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さてこのブログでは日蓮とか法華経とか大石寺の教学を検証することをいろいろやってます。
で、改めて法華経を読んで思うことなんですけど、文学的にとても美しい表現に満ちた経典だと思います。



私がとても好きなのは譬喩品第3、薬草喩品第5、化城喩品第7、安楽行品第14、如来寿量品第16などです。
ここでは薬草喩品について取り上げてみましょう。


ここで雨が草木を潤す比喩が語られますが、私はこの比喩がとても美しくて好きです。こういうところを読むと、法華経が魅力的であって、後世に伝えられてきた理由がなんとなくわかる気がします。


「例えば、カーシャパよ、この三千大千世界には、さまざまな色をした、数多くの種類の雑草や灌木や喬木などが、地上に、あるいは山や渓谷に生い繁っており、また種々の名称をもつ植物の群落があるが、それらの上に大水の満ちた雲が立ちのぼり、三千大千世界のすべてを覆いつくして、到るところに一時に雨を降らすとしよう。その場合、この三千大千世界における雑草や樹木の類は、若くて柔らかい茎や枝や葉や花弁をもつものも、大きく成長した茎や枝や葉や花弁をもつものも、すべて、こうして大きな雲から降りそそいだ雨から、それぞれの力に応じ、また成育の場所に応じて、水を吸い上げるのであるが、それらは同じ雲から降りそそがれた同じ味の水によって、それぞれの種子に応じ、遺伝により、成長して大きくなり、また太くなるのである。さらに、花を咲かせ、実をみのらせるのだ。しかも、それぞれに異なった種々の名称を得る。同じ土地に生えているものはすべて、薬草の群落にせよ、いかなる種子から生えた植物の群落せよ、それらはすべて同じ味の水によって潤される。まさしく、このように、完全に『さとり』に到達した如来は、この世に出現して、すべてを一様に潤すのだ。」
(『法華経』上、岩本裕訳、岩波文庫、267ページ)


とても美しい比喩だと私は思います。鳩摩羅什の訳では「雖一地所生、一雨所潤」と説かれています。
仏の「さとり」が何であるか、私はここで語りませんし、語る資格もありません。しかしその「さとり」によって様々な人たちがそれぞれの個性を持って生き生きと輝いていく姿を文学的に表現し得たのはこの薬草喩品だと思います。


実は鳩摩羅什はこの薬草喩品を訳す時に後半の部分を大幅にカットしています。この編集にはいささか恣意的なものを感じますが、このカットされている後半に重要な示唆があると思いますので少し長めですが、一部紹介させていただきたいと思います。「薬草の喩え」の部分です。




「すべての教えが平等であることをさとることから、カーシャパよ、『さとり』の境地は開けるのだ。唯ひとつの『さとり』の境地があるのであって、二つあるいは三つあるのではない。そういう訳で、カーシャパよ、余は喩え話を汝にしよう。理解力のある人々は唯ひとつの喩え話で話した言葉の意義を直ちにさとるからだ。
例えば、カーシャパよ、生まれつき盲目の人は『よい色のものとか悪い色のものとかはない。よい色のものと悪い色のものとを見分けられる人もいない。太陽も月もない。星宿もなければ、星もない。星を見分けられる人もいない。』
と、このように言うであろう。すると、他の人々はこの生まれつき盲目の人の前で、このように言うであろう。
『よい色のものも悪い色のものもある。よい色のものと悪い色のものとを見分けられる人もある。太陽も月もある。星宿もあれば、星もある。星を見分けられる人もある。』
しかし、生まれつき盲目の人はこれらの人々の言うことを信用せず、その言葉を承知しないであろう。そのとき、あらゆる病気に通暁した、ひとりの医者がいたとしよう。この医者はかの生まれつき盲目の人を見て、このように考えるであろう。
『この男は前世における悪業のために病気が生じたのだ。病気が生じた場合、すべての病気は四種類である。すなわち、風性のものと、胆汁性のものと、粘液性のものと、そして複雑な併発性のものである。』
そこで、かの医者は生まれつき盲目の男の病気を治療するために、再三再四手段を考えて、このように考えるであろう。
『事実、如何に多くの薬が現に用いられようとも、この病気はそれらの薬で治療することはできない。しかし、山の王者である、ヒマラヤ山には、四種の薬草がある。』
四種とは何であるか。第一は『すべての炎症と膿汁の病根に浸透するもの』といい、第二は『すべての病苦をゆるめるもの』といい、第三は『すべての毒を消すもの』といい、第四は『病根に応じて安静な状態をもたらすもの』という。これらが四種の薬草である。
そこで、かの医者は生まれつき盲目の男を憐れみ、
『いかなる手段を講ずれば、わたしはヒマラヤ山に行くことができようか。』
と、その手段を考えるであろう。
かの医者はヒマラヤ山に赴き、高い処に登ったり、低い処に降りていったり、また山腹を斜めに歩いたりして、薬草を捜すであろう。彼はこのように薬草を捜して、それら四種の薬草を入手したとしよう。薬草を入手すると、彼は若干のものを噛み砕いて与えよう。若干のものは粉末にして与えよう。若干のものは他の薬剤と混じて煮て与えよう。若干のものは生の薬剤と混じて与えよう。若干のものは針で局所に注射して与えよう。若干のものは火で焼いて与えよう。若干のものは他の薬剤と混じたのち飲食物などにまぜて与えよう。こうして、このような治療法によって、かの生まれつき盲目の男は視力を回復することができよう。そして、自分自身で直接に外を見ることができるようになり、遠近とか日月の光とか諸星宿・諸々の星およびすべて形のあるものを見たとしよう。そして、このように言うであろう。
『わたしはかつて注意されたにもかかわらず、人の言葉を信用せず、それを承知しなかったとは、わたしは何という愚か者であったことか。わたしは今なんでも見ることができる。わたしは盲目の状態から解放され、そして視力を得たのだ。自分より勝れた者はいないのだ』と。
そのとき、五種の神通力をもつ聖仙たちがいたとしよう。神のような視力と神のような聴力をもち、他人の心を読む智慧や前世の境遇を記憶する智慧を具えて、神通力によって人を苦しみから解き放つ所行の巧みなかれらは、この男に、このように言うであろう。
『おい、男よ、おまえは視力を得たに過ぎないのだ。おまえが何かを知っているのではない。おまえのそのような自惚れは何処から生じたのだ。それに、おまえは理智もなく、学識もないのだ。』
かれらは、さらに、その男に次のように言うであろう。
『おい、男よ、おまえが家の中に坐っているとき、おまえは家の外にある形のあるものを見ることはできないし、また何があるのか知らない。また、人々がおまえに対して愛情をもっているか、それとも憎しみをもっているかも分からないのだ。五ヨージャナの彼方にいる人間の話していることも、太鼓や法螺貝の音も分からず、聞き分けることもできない。おまえは僅か一クローシャの距離でも両足を挙げないで行くことはできない。おまえは母の胎内に生じて成長したが、その事実を憶い出すことはできない。とすれば、おまえにどうして学識がありえようか。また、どうして「わたしはなんでも見ることができる」と言うのか。だから、おい、いい気な男よ、おまえは暗黒を光明と思い、また光明を暗黒と思っていたということをさとるがよい』と。
そこで、かの男は聖仙たちに、このように言うであろう。
『どのような手段を用い、どのような善行をするならば、わたくしはこのようや理智を得ることができましょうか。あなたがたの御恵みにより、それらの徳を授けてください。』
そこで聖仙たちが、この男に次のように話すであろう。
『汝がそれを望むなら、人里離れた処か山中の洞窟に住め。そこに坐って、教えを静思し、汝を悩ます欲望を捨てるべきである。こうして、汝は清浄な徳を具えた者となり、神通力を得るであろう。』
そこでかの男はその意味をさとって出家した。彼は人里離れた処に住んで、一心不乱に世間の欲望を捨て、五種の神通力を得るであろう。神通力を得た彼は、
『わたしはかつて他のことをしたが、それによっていかなる恩恵も得られなかった。わたしはかつて理智が乏しく、経験も少なく、盲目であったが、今こそ望みのままに行くことができる。』と考えよう。
以上が、カーシャパよ、この意義を知らせるために余が作った喩え話である。そして、この場合、その意義は明らかである。生まれつきの盲目というのは、カーシャパよ、六種の運命をたどって生死を繰り返している人間をさすのだ。かれらは正しい教えを知らず、煩悩のために盲目となり、暗黒を増大しているのである。そして、かれらは無知のために盲目となり、業の原因となる所行を積み重ねる。そして、この所行が縁となって名と形態があり、遂にはその人だけの、このように大きな苦悩の集積が生ずるのである。
このように、人間は無知のために盲目であるが故に、生死を繰り返すのである。如来は三界を超越してはいるけれども、父が愛するひとり息子に対するように憐れみの心を起こして、三界に降りてきて、人間が生と死の回転する車輪の中に巻きこまれ、生と死の回転から脱出することを知らないのを視る。そこで、世尊はかれらを理智の眼で見て、
『これらの人間はかつて善いことをしたのであるが、今では憎悪の心は少ないが貪欲の心の深い者がおり、貪欲の心は少ないが憎悪の激しい者がいる。理智の乏しい者もあれば、学識のある者もあり、完全に清浄な者もあれば、誤った見解をもつ者もいる。』
と知るのである。これらの人間のために、如来は巧妙な手段を用いて、三種の乗物を示すのだ。
その場合、五種の神通力をもつ清浄な眼の聖仙たちのように、求法者たちは『さとり』を得ようとする心を奮いたたせ、この世に存在するものはすべて生じたり滅したりすることがないという真理を会得して、遂にこの上なく完全な『さとり』に到達するのである。
その場合、如来は実にかの偉大な医師と同じであり、愚かさのために盲目になっている人々は、かの生まれつき盲目の男と同じであると見做されるべきである。貪欲と憎悪と愚かさとは正に風と胆汁と粘液と同じである。そして六十二種の邪悪な思想も同様に見做されるべきである。また、一切のものの本質がないこと(空)と、一切のものに差別の根拠となる形状がないこと(無相)と、一切のものは作為なく存在していること(無願)と、『さとり』の境地への入口とは、四種の薬と見做されるべきである。それぞれの病気に応じて薬が用いられ、病気はそれぞれに治療されるということである。このように一切のものの本質がないことをさとり、形状のないことを会得し、作為なく存在していることを知ることが、この世の苦悩から解放される端緒であり、これが『さとり』の境地への入口であると考えて、人間は無知を克服するのである。こうして、遂には、その人だけの大きな苦悩の集積が克服されるようになるのである。そして、このように、その人の心は善にも悪にも捉われないのだ。
声聞と独覚の乗物を希求する者は、盲人が視覚を得るのと同じであると見做されるべきである。生死の回転の原因となる煩悩の緊縛を断ち、煩悩の緊縛から解放され、六種の運命から、また三界から解放される。これによって声聞の車を希求する者は、
『このほかに、現にさとるべき教えはない。わたしは「さとり」の境地に到達したのだ。』
と、このように知り、またこのように語るのである。そこで、如来が彼に
『すべての教えを聴いていない者が、どうして「さとり」の境地に達することがありえようか。』
と、教えを示すのだ。世尊はこの男を『さとり』に到達するように勧める。彼は『さとり』に到達しようと心を奮い立たせて、生と死の回転から脱出するが、『さとり』の境地には到達することができない。彼ははっきりと会得して、三界が十方において空虚で、この世は蜃気楼や幻影や夢や陽炎や反響に似ていると見るのである。彼は一切のものが生ずることもなければ死滅することもなく、緊縛されることもなければ解放されることもなく、暗黒でもなければ光明でもないと見るのである。このように教えの意味深遠なことを観ずる者は、三界のすべてに『さとり』に到達しようとする意志に専念する種々の人間が満ち溢れていることを、眼で見ることなく、心で見るのである。」
(同288〜294ページ)