気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

牧口思想について。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて最近様々な方から応援メッセージ等を頂き、本当にうれしいです。いつも感謝しています。


ところで、とある方から牧口思想についての示唆深いメールを頂きましたので、一部を紹介したいと思います。


この方は牧口常三郎の『人生地理学』の国際競争の考え方について「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」と競争形式が変わっていくことを示し、次のように指摘されています。




「これから考えると、牧口が軍事的戦争を否定的に考えていたことはいえそうに思えます
ただし、牧口のいう人道的競争とは、『軍事政治経済的競争を人道の範囲において行う』という消極的なものであって、
創価学会の言うところの平和主義とは異なるものかと思います。
また、競争形式の変更は生命尊重、人道的見地からの変化ではなく、単に経済合理性によるものですので、
ここから、創価学会が主張する
『牧口は人道的競争という言葉を使ったから、平和主義だ』
と牧口思想の人道性を主張するのは無理があるでしょう。
それがまかり通るのは、御書同様、牧口全集も読まない学会員が多いからです。

以上の事から私の私見ですが、

牧口は戦争自体には、経済合理性の側面から言って賛成ではなかった。
ただし、政治のオプションとしての武力行使は否定しておらず、
太平洋戦争については、消極的ながら賛成だったし、戦争するからには勝つべきだと考えていた。
付け加えると、戦争に勝つには天皇法華経に帰依するしかなく、このてんにおいては日蓮とよく似た思想を持つ
国家主義者だった。

というところかと思います。」



非常に説得力のあるご意見かと私は思います。
確かにこの信仰で大東亜共栄圏の新秩序を作るとか、そんな発言も牧口氏はされていますから、基本的に「政治のオプションとしての武力行使は否定していない」とする見解は非常に腑に落ちました。

安楽行品について。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今日の記事は、法華経安楽行品第14(サンスクリット本・第13章「安楽な生活」)から少し引用したいと思います。



「…………このように、求法者の乗物に乗った誰かの心を混乱させるようなことを語らない。そして、彼は教えに関する争いを好まず、また教えに関して争いをせず、しかもすべての人々に対する慈しみの力を捨てることはない。彼はすべての如来を自分の父と思い、すべての求法者を自身の教師と思うのである。そして、この世の十方に求法者がいれば、彼は絶えずかれらに懇願し、かれらを崇め尊んで礼拝する。しかも、彼は教えを説くにあたって過不足なく、教えのいずれの部分にも平等に愛情を注ぐ。まして、この経説を宣揚するにあたっては、教えに対する愛情とはいえ、誰かを特に依怙贔屓することはない。
マンジュ=シュリーよ、この第三の特性をそなえた求法者は、如来が入滅したあとの正しい教えが滅ぶ最後の時世にいるにもかかわらず、この経典を宣揚するが、楽しく交際して暮らし、他を害なうことなく、この経説を宣揚するのである。そして、かれらは彼がこの経説を説くのを聴き、その言葉を信じ、その言葉を頼りとし、それを心にとどめ、理解するとともに、この経説を書き写し、また書き写させ、また一巻の書物として、崇め尊び、敬慕し、供養するであろう。」
(『法華経』(中)岩本裕訳、263〜265ページ)



法華経安楽行品から私が見出すのは本来「教えに関する争いを好まない」信仰者の姿です。
「教えに関する争いをする」のは法華経安楽行品の精神とは違うものだと私は思います。
ましてお互いを口汚く罵りあう大石寺信徒や創価学会信徒が法華経安楽行品の精神に則っているとは到底言えないと私は思います。




法華経を根本とした道元。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて鎌倉仏教の中でも日蓮だけが法華経を根本にしていると、多くの創価学会員さんや大石寺信徒さんは思っていますけど、実は道元という人もまた法華経を非常に重視していたことは、日蓮信徒の方々にもっと着目されてよいことだと思います。



日蓮は、法華経を仏の「未来記」として、法華経末法という時代のために書かれた予言書であると解釈しました。
道元にはそのような視点はありません。そもそも道元は「末法」という歴史概念を否定しています。確かに法華経法師品には「正法」「像法」という用例が見られますけど、サンスクリット原典を見ても仏の法が次第に衰えていく歴史区分という風には読めません。むしろ仏の教えが長く伝わっていく喩えとして「正法」「像法」をここで語っているように私には思えます。確かに「末法」の語は安楽行品にありますが、道元はそれらを採用してはいません。

道元の時間概念は常に「今」という視点に立っていまして、「刹那の時間」から法華経を観じています。つまり道元にあっては思索の中心は常に「今ここ」という永遠の現在でなければならず、その問題意識から法華経を読んでいるんですね。


いわば日蓮法華経を物語として、もっと言えば未来への自身の予言書として法華経を読み解き、自身を仏の使いと考えたのに対し、道元法華経の「唯仏与仏・諸法実相」から本来の仏の悟りを考えたとも言えるでしょう。




提婆達多について。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて提婆達多というと多くの方には釈迦に反逆した無間地獄に堕ちた極悪人というイメージですが、法華経提婆達多品では天王如来という仏の記別を受けています。


デーヴァダッタ(提婆達多)はブッダの晩年に教団の改革案を掲げて反逆したことからいろんなエピソードが語られるようになりましたが、実はこの改革案(五事の戒律)というのは今日に伝えられる限りにおいては、むしろ教団の人たちの生活を厳格に規制しようとした粛清案であって、デーヴァダッタは教団を本来の姿に立ち還らせようとした人であったと考えられています。


事実、デーヴァダッタ派の教団は後世まできちんと存在していたことが知られていまして、7世紀にインドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記』によれば、ベンガル地方に特殊な礼拝形式を持ったデーヴァダッタ派教団が存在していたことを伝えています。また法顕三蔵も5世紀にネパール国境近くでデーヴァダッタ派教団を見たとされています。


法華経においてブッダとデーヴァダッタとの関係は他の経典と異なり非常に親密に描かれていますが、このことは『法華経』の成立がデーヴァダッタ教団との親密な間柄、もしくは初期の法華経教団とデーヴァダッタ教団とのなんらかの和解を示唆していまして、その結果として提婆達多品が後世に法華経中に組み入れられたと考えられています。


ですから提婆達多法華経中で天王如来の記別を受けたことは、悪人成仏の根拠として語られることが多いのですが、むしろ伝統的な大乗教団とデーヴァダッタ派との和解の結果、法華経への提婆達多章の挿入があったのだと考えた方が自然だということです。






二処三会は存在しない。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
今回のテーマは法華経の「二処三会」(にしょさんね)についてです。




わからない方のために簡単に説明しますと、法華経では最初の説法が霊鷲山で説かれます(序品第1〜法師品第10)。そしてその後、宝塔が現れて釈迦多宝が衆生を虚空に引き上げて空中で説法がされます(見宝塔品第11〜嘱累品第22)。その後、もう一度霊鷲山に戻ってきて説法が展開される(薬王菩薩本事品第23〜普賢菩薩勧発品第28)というのが鳩摩羅什訳の法華経の構成になります。


ですから二つの場所で三回説法があるので、このことを「二処三会」と言うんですね。
もう一度図示すると以下のようになります。


霊鷲山会:序品第1〜法師品第10
虚空会:見宝塔品第11〜嘱累品第22
霊鷲山会:薬王菩薩本事品第23〜普賢菩薩勧発品第28


ということになります。


この「二処三会」の原理については池田名誉会長は『法華経智慧』で「前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば『現実→悟りの世界→現実』という流れ」と説明してきました。


創価学会の指導でもよく「祈った後、現実と対決するのが信心なのよ」という指導がありますが、要するに祈りの世界から現実の世界に戻る、その原理が「二処三会」であるということなんですね。
私は宗教者として原理として「二処三会」には確かに一定の有効性はあると思っています。信仰者が悟りの世界に行きっぱなしだったら現実世界と遊離してしまいますものね。



ただ問題点は法華経には本来「二処三会」の原理はなかったということなんです。
どういうことか説明しますと、実はサンスクリット本では嘱累品第22は本来最終章だったんです。


冒頭の画像を見てほしいのですが、サンスクリット本の法華経では本来「委任」の章は最終章の27番目に置かれています(なお法華経が28品ではなく27品になっているのは提婆達多品第12が後世に挿入されたためで、竺法護の『正法華』でも提婆達多の話は見宝塔品の中に吸収されています)。
岩本裕氏はこの嘱累品の配列について、岩波文庫版の注で次のように書いています。



「この章はサンスクリット語原典では最後の第二十七章であるが、『妙法華』嘱累品第二十二に該当するので、〔二七〕の和訳をここに配置した。文献学的に見て、この配置が正しいというのではなく、ただ便宜的に妥協したにすぎない。(中略)なお、本章の末尾はある経典の末尾の一般的形式と同じであり、従って本章が『法華経』の末尾をなしていると考えるのが妥当である。すなわち、サンスクリット語原典ならびに『正法華』の形式が『法華経』として伝統的に正しいものであり、『妙法華』の章の配列には何か作為あるいは過誤が感じられる。」
(『法華経』(下)岩波文庫版404ページ)




ですから「委任」の章(嘱累品第22)が法華経の末尾であるとすると、虚空会の儀式は最後まで続いたということになりますので、「二処三会」の原理は本来法華経には存在しないということになります。



天台智顗の法華経解釈というのは基本的に鳩摩羅什(クマラジーヴァ)訳の法華経を過信して考えられたものです。
教理を説明するのならば、やはりその前提をきちんと見直してみることが大切かと思います。無批判に摂取して教理を語ってもそれが真実でないのならば、説得力を持ち得ないはずですから。
















無量義経への疑念。






いつもみなさん、ありがとうございます。



無量義経に「四十余年・未顕真実」とありますが、この「真実」が『法華経』であるということを示す文献的証拠はありません。


現在の仏教学では、無量義経は西暦500年頃に中国で作られた偽経であると考えられています。無量義経には梵本が存在しません。


創価大学教授の菅野博史氏の見解によれば、法華経の前に説かれたとされる「大乗経名無量義教菩薩法仏所護念」に仮託して中国人仏教徒の誰かの手により『無量義経』が偽作されたとしています。
また横超慧日氏や紀野一義氏らも、萩原雲来氏の説を受けて『無量義経』が中国撰述の可能性が極めて高いことを指摘しています。



つまりこれらの説を総合して考えると『無量義経』は『法華経』の開経として中国の仏教徒の手によって偽作された可能性が高いといえます。



ですから『法華経』が最第一であるとする前提として『無量義経』の「四十余年・未顕真実」を持ち出すことは根拠も正当性も全くないということです。

真蹟遺文に「血脈」の語はない。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて昨日の聖教新聞(2017年6月15日)の紙面座談会で『生死一大事血脈抄』が引用され、団結の重要性を指摘されていました。
「血脈」とは「水魚の思い」をなすことが大切なんだそうです。私もかつてそう教わりました。
 
 
けれど考えてみると「血脈」という語は日蓮の真蹟遺文には全く出てこない語であります。
 
 
「血脈ってやめません?」
 
 
「血脈」という語が大切なら、日蓮の真蹟遺文や曾存遺文中に一つでも出てきてよさそうなものです。ところが『開目抄』にも『観心本尊抄』にも出てこない。
 
 
「血脈」という語が使われる御書をあげると、以下のようになります。
 
 
『立正観抄』
『立正観抄送状』
『百六箇抄』
『本因妙抄』
『身延相承書』
 
 
全て見事に真蹟が存在しません。
つまりここから考えるに「血脈」なる語が日蓮の思想中にあったとしてもそれらは傍系の思想に過ぎず、信仰上さして重要性があったとは言い難いということかと思います。
 
 
つまり日蓮門流を名乗るのであれば、やはり真蹟遺文中にそれがあるのかないのか、それが果たして日蓮の思想と言えるのかということをきちんと検証して語ることが大切なのだと思うんですね。
創価学会大石寺の誤りは「真蹟がなくても信仰上の利点があるのだから問題ない」と信仰上の現世利益を優先し、それが日蓮の思想であるかどうかという検証は二の次にしてきたということだと思います。
 
 
どっかの宗派の言っている日蓮解釈でもまあ構いませんけど、少なくとも私は日蓮門流を名乗る以上、日蓮真蹟遺文に即してそれが果たして本当に日蓮の思想と言えるのかという検証をきちんとしなければいけないと考えます。それこそが信仰者としての誠実な態度ですし、そもそもそういう過去の検証を怠ってきたのが創価学会大石寺の偽らざる歴史なのではないでしょうか。