気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

教義のソフトランディング。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて創価学会は、宮田幸一氏や犀角独歩氏らの研究からもわかるように、すでに大石寺蔵の弘安2年戒壇本尊が後世の贋作でしかないということがだんだんわかってきてしまっています。単にそれを表向きに公言していないだけで、教義的にもすでに「受持の対象としない」としたことからも推察できるかと思います。


で、これはすでに既定路線で、教義はより大石寺教学から離れていくことになります。
何せ御大池田氏本人が「戒壇本尊が根本であることはこれからも少しも変わらない」なんて言ってしまいましたから、どうやってソフトランディングさせるのか、信濃町としても御大としてもタイミングを計っているところかと思います。おそらく日蓮か日興の真蹟本尊を使って、日寛本尊からも脱却するかと思います。その時は大誓堂にある大石寺64世水谷日昇書写の創価学会常住本尊も見直しを迫られるかもしれません。


で、その際、ロジックとして考えられるのは「我々、創価学会は真実の意味で広宣流布を現実のものとしてきた唯一の団体だ。だからそこに血脈があり、功徳があったのだ」という説明に持っていきたい意図を感じます。
要するに戒壇本尊だろうが何だろうが、私たちは一生懸命やってきたんだと。その"心"が日蓮と繋がったのであり、そこにこそ創価学会の血脈があったのだとして教義を転轍したいのでしょうね。


ただそうなると、一つごまかしがあります。
所詮、創価学会はかつて大石寺の信徒団体でした。そして戒壇本尊こそが唯一無二の本尊であり、他の本尊は功徳がないことを重ねて主張してきたのです。この主張は初代牧口会長から変わらない教義であったはずです。
それなら「今まで私たちがやってきたことは間違っていました」ときちんと総括すべきなのだと思います。


私が理解できないのは、過去のやってきたことと言ってきたことと全く違うことを主張しながら、それを安易に正当化し、謝ることも総括することもできずに、「創価学会仏」と称して自分たちの過去を正当化して憚らない、その姿勢です。


人間のやることだから間違いはあります。それならきちんと過去の自分の間違いを認めて謝罪すればよいのです。事実、私は過去の友人たちに強引に布教活動をしたことを率直に詫びました。その中には現在、私の友人となって関係が改善された方もいらっしゃいます。


過去の教義との整合性もずれも見ないふりをして、過去の自分たちの姿勢をごまかし、「俺たちはいつだって正しかった。そしてこれからも正しいのだ。何しろ広宣流布を実現する唯一の団体で、創価学会仏なのだから」などと主張するならば、それは後世の創作教義に固執して自分たちを権威化する大石寺となんら変わるところはないでしょう。