気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

創価学会の本尊定義の矛盾。



いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会は2014年11月8日に聖教新聞紙上にて「弘安2年の戒壇本尊は受持の対象にはしない」との公式見解を出しました。
私はこの件に関して、創価学会がとやかく大石寺や他宗門から言われることではないと考えています。考えてみれば学会は大石寺から破門されたわけで、別の宗教団体になったわけですから、独自の本尊を教団で考えることは至って自然なことです。
私が創価学会を批判したい論点はそこではありません。それは、

戒壇本尊を受持の対象としていないのに、堅樹院日寛の本尊と水谷日昇の本尊を根本にしている」

という決定的な矛盾についてなのです。


現今の大石寺教学というものは日寛教学であります。ですから日寛教学から考えれば法主が書写する本尊は原則として「弘安2年の戒壇本尊を写したもの」です。
つまり創価学会員の各家庭で日寛書写の本尊を拝むということは、「弘安2年戒壇本尊を否定」しながら「弘安2年戒壇本尊の写しを拝む」という決定的な矛盾に突き当たります。
この点について創価学会が会員に対して説得性のある見解を提示できているとは私には思えません。


また創価学会本部の広宣流布大誓堂に安置されている学会常住本尊は、大石寺64世水谷日昇が1951年(昭和26年)に書写したものを板に模刻したものです。「大石寺法主が書写したもの」ということは、大石寺の理屈からすればそれは「戒壇本尊を写したもの」になります。
大石寺の根幹の教義を「受持の対象としない」としているにも関わらず「受持の対象としていないはずの本尊の写しを拝む」というのは決定的な矛盾ではないでしょうか。


もちろん私は弘安2年戒壇本尊は単なる後世に創作された偽物であり、なんら現在において通用する教義でないと考えています。
だから私が創価学会を批判する理由は、彼らが大石寺戒壇本尊を否定していることというよりも、むしろ自教団の本尊の定義を曖昧にして、古参の会員にも配慮したような玉虫色の決着で教義の問題を片付けているという教団の姿勢の方なのです。






宗創問題について③平成2年〜平成3年



いつもみなさん、ありがとうございます。
さて前回の平成2年に始まる宗創問題の検討の続きです。


私の見解は平成2年7月17日の連絡会議での学会側の発言こそが一連の問題の発端だと考えていますが、今回はその再掲に加えて平成3年1月からの流れを時系列に見ていきましょう。


平成2年7月17日
連絡会議(常泉寺)の席上、創価学会首脳部が一部宗門僧侶の行状を批判して席を立つ。

平成2年8月20日
連絡会議(常泉寺)の席上、宗門側は綱紀自粛に取り組むことを学会側に伝える。

平成2年8月29日〜30日
全国教師講習会(大石寺)および指導会において「綱紀自粛に関する基準」を発表。

平成2年9月2日
大石寺開創七百年慶祝文化祭。

平成2年10月6日
大石寺開創七百年慶讃大法要にて阿部日顕氏は「特に近年、創価学会の興出により正法正義は日本乃至世界に広まり」と発言。

平成2年11月16日
創価学会第35回本部幹部会。

平成2年11月20日
池田名誉会長、秋谷会長、阿部日顕氏に目通り。

平成2年12月13日
宗門側が本部幹部会スピーチに対する「お尋ね」文書を秋谷会長に渡そうとするが拒否される。

平成2年12月16日
宗門側は「第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」(通称「お尋ね」文書)を創価学会に送付。宗門は7日以内の回答を求める。

平成2年12月23日
創価学会は宗門に対し「お伺い」文書を送付。「創価学会を誹謗中傷している」として学会側は回答を拒否する。

平成2年12月26日
宗門は創価学会に対し「誠意ある回答なし」とする「通知書」を送付。

平成2年12月27日
宗門は第130回臨時宗会にて宗規を改正。この改正で、池田氏法華講総講頭資格を喪失。

平成2年12月29日
宗門は「お伺い」への「宗務院の返書」を学会に送付。

平成2年12月30日
学会は宗門に対し「抗議書」を送付。

平成3年1月1日
全国末寺の元旦勤行会で住職たちが公然と「学会は三宝破壊」と批判を始める。

平成3年1月2日
初登山の折、秋谷会長、森田理事長は阿部日顕氏への目通りを求めるが、宗門側は拒否。

平成3年1月3日
学会は宗門に対し「質問書」を送付。

平成3年1月4日
この頃より聖教新聞紙上で大石寺への批判が始まる。

平成3年1月5日
学会は宗門に対し、「質問書(2)」を送付。

平成3年1月6日
全国教師指導会の席上、阿部日顕氏は池田名誉会長を公然と批判。

平成3年1月12日
宗門は学会に対し「『お尋ね』に対する回答についての指摘」を送付。

平成3年1月16日
学会は宗門に対し、抗議書「宗務当局の責任を問う」を送付。

平成3年1月17日
山崎正友氏の実刑が確定(最高裁)。

平成3年1月24日
宗門、宗務院に時局協議会を設置。

平成3年2月頃
創価学会がいわゆる「学会葬」「友人葬」を始める。

平成3年2月26日
宗門、全国支院長会議の席上、各教区ごとで池田名誉会長への謝罪要求書を出すことを決定。

平成3年3月16日
宗門、添書登山開始を通知(実際の開始は平成3年7月2日)。

平成3年5月23日
登山会廃止について、大富士開発一部従業員が阿部日顕氏に抗議書を提出。

平成3年6月5日
宗門、一般紙に「創価学会の皆様へ。大石寺登山について」という添書登山の方式の広告を掲載。

平成3年7月2日
添書登山が開始される。

平成3年7月21日
全国教師指導会の席上、阿部日顕氏は学会の反省を求めるために宗規改正、添書登山を行なった旨を発言。

平成3年9月17日
創価学会・第46回本部幹部会の席上、秋谷会長は「宗門は天魔と化して信者泥棒に狂奔し」と発言。

平成3年10月頃
創価学会は阿部日顕氏の退座要求署名運動を始める。

平成3年10月21日
宗門、学会に「通告文」を送付。学会葬をやめるよう通告をする。

平成3年11月7日
宗門、学会に「解散勧告書」を送付。同日、記者会見。

平成3年11月28日
宗門、学会に「破門通告書」を送付。日蓮正宗創価学会および創価学会インターナショナルを破門とする(創価学会はこの日を「魂の独立記念日」と称する)。

平成3年12月25日
学会は特許庁へ「日蓮世界宗創価学会」と「日蓮世界宗」の名称を出願。平成5年3月31日に認可される。

平成3年12月27日
学会、阿部日顕氏に対し「阿部日顕法主退座要求書」を送付。署名数16,249,638人。




このへんになるともう完全にグチャグチャで、泥仕合の様相を呈してきます(笑)。
つまり平成3年に入ってしまうと、大石寺創価学会ももう完全にお互いのことを罵り合う関係になってしまっていまして、ここからどちらが正しいのかという客観性のある史料を取り出すのが難しくなってきます。


ここまで年表を追ってきてわかることがいくつかあります。


創価学会側が公式に宗門僧侶の批判を初めて行ったのは平成2年7月17日である。

大石寺側はこの時の学会側の主張を後に批判しているが、少なくともこの時点で学会側の意見を一部受け入れ、平成2年8月20日、および29日〜30日に宗内僧侶に綱紀粛正を伝えている。

③平成2年7月17日連絡会議よりも以前に大石寺創価学会を公式に批判しているという史料を筆者は見いだせない。少なくとも10月6日に阿部日顕氏は創価学会出現の意義を宣揚する発言をしている。

大石寺側が創価学会批判を始めるきっかけは平成2年11月16日の本部幹部会での池田名誉会長の発言であり、大石寺はその疑念を「お尋ね」という形で連絡会議の席上で伝えようとした。

⑤ところが平成2年12月13日、連絡会議の席上、大石寺側が創価学会に対して「お尋ね」文書を渡そうとしたが、秋谷会長はこの受取を拒否している。

大石寺が公式に創価学会を批判するのは平成2年12月26日である。つまり12月16日発送の「お尋ね」で1週間後の回答を求めたのに対し、10日後に「誠意ある回答なし」と大石寺は判断したことになる。翌27日に宗規改正により池田名誉会長は総講頭の資格を喪失するが、この改正により他の法華講大講頭たちも同様に講頭の地位を喪失している。そして平成3年元旦より末寺の住職たちから創価学会批判が公然とされるようになる。











興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さてこのブログで、幾たびか大石寺奉安堂にある弘安2年建立とされるいわゆる戒壇本尊について、偽作であり、後世の創作であることを重ねて主張してきました。


以前ここでしていた主張はどちらかといえば相貌面での主張であり、『御本尊七箇相承』との相貌の相違、また日興の正応3年の御座替本尊(大石寺客殿安置本尊)との相貌の相違などを指摘してきました。


ここでは日興門流の文書を挙げて、弘安2年戒壇本尊が本当に日蓮在世中から存在していたのかを考える資料としたいと思います。


①重須学頭・三位日順『本門心底抄』貞和5年(1349年)

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。」
(富士宗学要宗第2巻34ページ)

まず①の重須学頭である三位日順ですが、日興より学頭職を譲られた日順が「本門の戒壇」について語っている段で「仏像を安置すること」について言及しています。「本門の戒壇」に安置すべき本尊について戒壇本尊が当時存在していると仮定するとこのような発言が出てくること自体、不自然であると考えられます。



②重須学頭・三位日順『誓文』暦応5年(1342年)
「仏滅後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大漫荼羅」
(同2巻28ページ)

※同じく三位日順ですが「日蓮総体の本尊」と称するものを語る時に「二千二百三十余年」と書かれており、奉安堂安置の戒壇本尊「二千二百二十余年」と相違しています。



大石寺4世日道『三師御伝土代』元弘3年(1333年)
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ソ三身即一の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」
(同5巻12ページ)

大石寺4世である日道もまた「背いてはならない御本尊」を説明する際に「二千二百三十余年」としており、戒壇本尊の「二千二百二十余年」と相違しています。



④下条妙蓮寺5世日眼『五人所破抄見聞』康暦2年(1380年)
末法能弘、本化所図の漫荼羅を以ツて本尊とす、仏滅度後二千二百三十余年ノ間一閻浮提ノ内未曾有ノ大漫荼羅と遊バス也、諸仏菩薩諸世天等ハ衆生利益ヲ肝要トセリ三十余年と在る文永十一年の比よりの御筆ノ漫荼羅以テ肝心也」
(同4巻19ページ)

※興門流の下条妙蓮寺5世日眼の発言ですが、三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心とまで言われています。ちなみに戒壇本尊の記述は「仏滅後二千二百二十余年」であり、ここでの「仏滅度後二千二百三十余年」とやはり相違しています。





昭和54年の会長辞任の責任。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さてこのブログでは以前、昭和54年の池田会長辞任の責任についていろいろ書いてみました。

「昭和54年の辞任問題」


この中で、私は「昭和54年の池田会長辞任については、明確に池田会長本人に大石寺教学から逸脱の責任がある」ということを書いています。


ところで、池田会長が辞任して名誉会長になってから、このことに関して池田名誉会長自身が聖教新聞紙上できちんと述べている文章があります。これは昭和55年4月2日の聖教新聞に掲載された「恩師の二十三回忌に思う」という文章です。
今回はこの文章を引用したいと思います。全文は長文のため、部分的にいくつか重要と思われるところを取り上げてみましょう。



しかしながら、創価学会が急速に拡大し、膨大化した結果、とくに近年、現実社会の対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。この間の問題について、当時、その責任の立場にあった私として、懺悔すべきは懺悔し、真情は真情として述べさせていただきたいと思うのであります。」


近年の宗門との問題が、昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第二章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります。」


この時期、私の念頭にあったのは、広宣流布の拠点として、会員の要望に応える会館の整備でありました。第二には、在家団体としての基盤確立であり、新しい布教活動のために、社会と時代に開いた教学の展開でありました。第三に、21世紀のために、文化、平和に責献する基礎をつくることでありました。

いわば、広宣流布に向かう在家の社会における宗教的役割と理念を、明確にして進んだのであります。それは、現代の宗教に対する期待に応えたかったからでもあり、それがひいては、より大勢の宗教に無知な人々を、日蓮正宗に誘引できる方途と信じたからにほかなりません。

とくに52年においては、現実社会のなかで、仏法を弘通する在家としての使命と自覚を、仏法史に照らし、御書に照らして強調したのであります。この一連の指導を通して広宣流布を推進するためにも、かつ、社会のなかで主体性をもつ創価学会の在家団体の側面を理念化したのであります。」


それだけに、御宗門に対しては、これだけ広布に挺身してきた会員を見下したり、隷属させるのではなく、温かく慈悲をもって見守ってほしいと、厳しく直言させていただいたこともあります。

しかし、そのなかには、たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり『学会が主、宗門が従』というような状況もありました。その結果、宗門の一部御僧侶に、この方向が、学会が独立を企図しているのではないかとの疑念を生ぜしめ、また、会内にいわゆる『北條文書』などのような感情的な議論のあったことは、まことに申し訳なく思っております。

もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。

白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に警って申し上げるものであります。

ただ、私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。」


しかし、この難解な仏法をだれにでも分かりやすく説くために、いつのまにか、そのなかに安易な適用が行われたり、元意から遊離して勝手な展開が行われる等、いわゆる摧尊入卑のそしりを免れない恐れがあることは確かであります。

この点、御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『6・30』(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。したがって、この徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々末代にわたる肝要と深く自覚しなければなりません。とともに、広宜流布のいっそうの推進のために、この正宗の法義、伝統を正しく踏まえたうえで、生活に、社会に、世界にと、碓信をもって、教学を展聞しゆくことは、私ども創価学会の使命であることを銘記して、進んでまいりたいのであります。」


このことについては、かつて私も『創価学会には、教祖も、唯一至上の絶対者などもいない。私も会員諸氏も、共に広宣流布をめざして進む同志である。(中略)すなわち日蓮正宗創価学会員にとって、唯一至上、絶対の尊厳は三大秘法の御本尊であり、他はすべて創価学会会長といえども、平等に末法衆生であり、凡夫である』と述べたとおりであり、同じことは、今までも数多くの会合で話してまいりました。

したがって、代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3代会長の任に就きましたが私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあってはならないことです

私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております。『大荘厳懺梅』とあるごとく、日々、大御本尊に対し奉り強き信を持ち、三業を三徳に転しゆく修行であり、人生であらねばならないと肝に銘じ、深く謗法罪障消滅を御祈念し奉る日々であります。

また、今日の種々の問題も、私の指導性の不徳のいたすところであり、多くの会員信徒に多大なご迷惑をおかけし、ご心労をわずらわしたことについても、御本尊に深くお詫びの合掌をさせていただいている日々でもあります。」


池田大作「恩師の二十三回忌に思う」より抜粋。聖教新聞、昭和55年4月2日)




これを読んでわかるように、池田会長の辞任の理由は「僧侶の攻撃」ではなく「会長自身の大石寺教学からの逸脱」だったのです。

また「私などを絶対視してはならない」とし「代々の会長を神格化してはならない」と明言しています。

とするなら、現在の創価学会の根本教義である「三代会長を永遠の指導者」とすることはいったいどうなってしまうのでしょう。



池田会長の昭和54年の辞任はこれら昭和52年路線の総括であり、自分たちの教義逸脱を率直に認めた出来事であったはずです。

にも関わらず、これらの発言を全てないことにして「悪侶からの故なき攻撃」によって"辞任させられた"とする解釈は、かつての過去の発言を否定することになると私は考えます。
















宗創問題について②平成2年7月以前のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて平成2年〜3年にかけての第2次宗創問題についていろいろ書いていますが、私の前回の投稿のポイントは「平成2年7月17日の連絡会議」であることを指摘しました。
この時の大石寺の見解と創価学会の見解が食い違っているので、この連絡会議こそが大石寺創価学会を分けた分水嶺だったと私は考えています。
この日の両者の説明を対照すると以下のようになります。

大石寺側の説明】
創価学会は一方的に批判をまくしたて、大石寺への返答を許さず、一方的に席を立って退席した。
創価学会側の説明】
創価学会大石寺僧侶に対して綱紀粛正を申し入れた。

両者の話を総合すると「創価学会側は大石寺へのなんらかの批判を会議の席上行なった」のであり、そして「大石寺側の出席者はこれに対し、反論をしなかった、あるいは反論できる雰囲気になかった」ことが推察できます。


私の推察ではこの日に創価学会大石寺に反論を許さないような状況下(どのような状況だったのかはわかりませんが)で、大石寺に対し、あるいは大石寺の僧侶に対してなんらかの批判を行なったと考えるのが自然であると思います。


ところで、この創価学会による僧侶批判はその少し前から創価学会首脳部になんらかの形で存在していたように私は考えています。
根拠を具体的に言うと、以下の池田名誉会長自身の発言です。



◯平成2年6月20日
創価学会本部幹部会にて池田名誉会長。
金ばかり取って、小欲知足どころか、大欲傲慢じゃないか。在家を励ますどころか、責める、いじめる、嫌な思いをさせるような人に、我々はなめられてはいけない。秋谷はびくびくして、顔色ばかりうかがって、だから宗門からなめられるのだ。お寺のことで何かあったら、私といっしよに立ち上がりましよう」


◯平成2年7月9日
苫小牧記念動行会(苫小牧平和会館)にて池田名誉会長。
「かつて衣の権威をカサに着て、一部の悪侶が、まじめに信心し、弘教に励んでいる、尊い仏の使いを軽んじ、いじめ、見下げてきた。その心は仏法の心ではない。僧としてよりも、人間として許されることではない。だれびとが、どんなに『自分は偉い」と威張ってみても、現実に一人の人に弘教し、面倒をみ、幸福にしていった『実証』にはかなわない。『高位の人』よりも『弘教の人』が偉いのである。仏法の眼からみれば、実社会のなかに、我が地域のなかに、『正法流布」を進めている皆さま方ほど尊い存在はない。」


◯平成2年7月14日
札幌記念幹部会 第1回北海道最高会議(北海道池田講堂)池田名誉会長。
「僧侶は『少欲知足』が本分である。高潔な『聖僧』が大聖人、日興上人の教えられた道である。踏むべき道を忘れた末法の僧侶のことを大聖人は、食べ物を奪い合う大にたとえて厳しく裁いておられる。"畜生道"であり、また″餓鬼道"の姿である。そして弘法もせず、我が身を養う欲望ばかり盛んな僧侶を、『法師の皮を著たる畜生なり』表に法師の皮をつけただけの畜生である、『法師と云う名字をぬすめる盗人なり』僧侶という名前を盗んでいる泥棒であると、激しく非難し、指弾しておられる。これは本来、他宗の僧への破折であられた。それが近年、かの悪侶たちのごとく、日蓮正宗からも、そうした卑しき輩が出たことは、大聖人のお悲しみ、お怒りは、いかばかりかと嘆かずにおられない。」


以上の池田名誉会長の発言から判断するに、創価学会は平成2年6月の時点で「宗内の一部の僧侶」が「少欲知足の本分を忘れている」実態があったと認識していたということになります。

つまり事の発端は平成2年頃に創価学会側が大石寺の一部僧侶の行動について、少欲知足のあるべき姿ではないことに懸念を示しており、それを責める形で批判したのが平成2年7月17日の連絡会議だったと考えることができます。

私はここでそのような僧侶の実態があったのかどうかを問題にしているわけではありません。真偽はわかりませんが、ここのポイントは創価学会側が少なくともそのような実態が宗内の僧侶の中にあったと考えていたということであり、それをどのような形で創価学会が宗門に伝えようとしたのかが今後解明されるべき論点かと思います。




追記:
またここで気になるのは、池田名誉会長がここで指摘している僧侶が具体的に誰のことを指しているのかという点です。この時に批判されるべきと学会側が考えていたのが阿部日顕氏本人だったのかという疑問が率直にわきます。
というのは平成2年7月17日の連絡会議でもしも法主のことを直接批判したとするなら、宗門側の出席者がそこで黙っているとは考えにくいですし、その後に大石寺側が宗内僧侶に綱紀粛正を申し入れたことから考えてもやや不自然です。
とするなら、以下の推論が浮上します。


創価学会側が平成2年7月以前に批判されるべきと考えていたのは阿部日顕氏本人ではなく他の僧侶であり、その僧侶の生活等について連絡会議で批判した。

②あるいは創価学会側が批判されるべきと考えていた僧侶が平成2年7月以前にすでに阿部日顕氏本人だったと仮定するなら、創価学会側は7月17日の連絡会議ではあえて法主本人を批判せず他の僧侶を批判するという判断をした。


上記どちらかの推論が立てられると考えます。








宗創問題について①平成2年7月〜12月



 

いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は創価学会日蓮正宗との問題についていろいろ書きますが、平成2年に端を発する第2次宗創問題についてはあまり書かないで来ました。


なぜかというと本当のところがよくわからないからなんですね。
大石寺創価学会の軋轢が起こった最初はおそらく平成2年7月17日、常泉寺での日蓮正宗創価学会の連絡会議の席上です。
この時、学会側は「宗門僧侶や法主を批判して席を立った」とされています。もしも創価学会側が一方的にそのような態度に出たとするならそれは批判されて然るべきでしょう。
創価学会側の説明は、平成2年7月17日連絡会議の席上で「宗門僧侶の綱紀粛正を申し入れた」とするものです。


おそらくこの平成2年7月17日の連絡会議で何が起こったのかということが、宗創問題の一切の出発点なのだと私は考えています。


そして同年11月16日に創価学会では第35回本部幹部会が行われました。この時の池田氏のスピーチに対し、大石寺側は宗門や僧侶を軽視したものだとして「お尋ね」文書を送付して来ます。
以下、平成2年の年末にかけて宗門と創価学会とのやりとりを年表にしてみましょう。



平成2年7月17日
連絡会議(常泉寺)の席上、創価学会首脳部が宗門僧侶の行状を批判して席を立つ。

平成2年8月20日
連絡会議(常泉寺)の席上、宗門側は綱紀自粛に取り組むことを学会側に伝える。

平成2年8月29日〜30日
全国教師講習会(大石寺)および指導会において「綱紀自粛に関する基準」を発表。

平成2年9月2日
大石寺開創七百年慶祝文化祭。

平成2年10月6日
大石寺開創七百年慶讃大法要にて阿部日顕氏は「特に近年、創価学会の興出により正法正義は日本乃至世界に広まり」と発言。

平成2年11月16日
創価学会第35回本部幹部会。

平成2年11月20日
池田名誉会長、秋谷会長、阿部日顕氏に目通り。

平成2年12月13日
宗門側が本部幹部会スピーチに対する「お尋ね」文書を秋谷会長に渡そうとするが拒否される。

平成2年12月16日
宗門側は「第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」(通称「お尋ね」文書)を創価学会に送付。宗門は7日以内の回答を求める。

平成2年12月23日
創価学会は宗門に対し「お伺い」文書を送付。「創価学会を誹謗中傷している」として学会側は回答を拒否する。

平成2年12月26日
宗門は創価学会に対し「誠意ある回答なし」とする「通知書」を送付。

平成2年12月27日
宗門は第130回臨時宗会にて宗規を改正。この改正で、池田氏法華講総講頭資格を喪失。

平成2年12月29日
宗門は「お伺い」への「宗務院の返書」を学会に送付。

平成2年12月30日
学会は宗門に対し「抗議書」を送付。




ほらほら、この年末あたりからだんだんきな臭くなってきますよね(笑)。で、年明け平成3年1月4日くらいから聖教新聞紙上で大石寺への批判が始まってきます。
で、ことの発端がどこなのか、創価学会側も日蓮正宗側も言ってることが違うのでよくわからないんです(笑)。
おそらく事実としては平成2年7月17日の連絡会議の席上で何かがあったと思うんですね。どうもその席上で学会側の首脳部がなんらかの宗門批判を行い、席を立ったのは事実のようです。その口調とか言い回しとかがどういうニュアンスだったのかがとても気になりますね。


今回の稿の終わりとして、平成2年12月29日の大石寺側の返書にある藤本日潤氏の言葉を引用しましょう。ここから見るとなんとなく"平成2年7月17日連絡会議"の様子が垣間見られるように思います。



7月17日の連絡会議の席上での学会首脳の各氏の発言が、『憍慢謗法であるなら、ただ黙って聞いておられた僧侶方に、何ら間題はないのでしょうか』とのお伺いですが、当日の会議は、学会側が『今日は話を聞いて頂く』というものすごい剣幕で、一方的に宗門に対する種々の問題をまくし立てたのであります。不審な点を聞こうにも、当方の言葉を差し挾ませないばかりか、一人の話が終わらぬうちに、次の者が宗門や僧侶を批判するという有様で、言いたい放題言い終わるや否や、当方の返答など一切聞かず、『今日はこれで』と座を立ったのであります。このように、当方の発言を封ずる状態にしたのは、学会側ではありませんか。常識的に考えて、あのような状況下では、まともな返事ができるわけがありません。したがって、この批難は、質問としてまったく当を得ておりません。反対に、連絡会議という宗務院と学会における、実務上の最も重要な場において、あのような状況を作り出した学会首脳の、憍慢の姿を指摘するものであります。」
(藤本日潤『創価学会からの「お伺い」書に対する宗務院の返書』平成2年12月29日)



どこまでが宗門側の脚色なのか定かではないので確かなことは言えませんが、次の点は推察できます。

①平成2年7月17日の連絡会議の席上、創価学会側は宗門僧侶へのなんらかの批判や綱紀自粛のようなことを申し立てた。

②その際、学会側は強い口調で宗門批判をし、自ら席をたって退席している。

大石寺側はこれに対し、少なくとも反論らしいものをこの場ではしていない。




追記:
宗創問題の発端は平成2年7月17日の連絡会議ではなく、平成元年の登山供養費の値上げなのではないかという意見もありますが、私はこれにはやや懐疑的な見方をしています。
大石寺が消費税導入を契機として登山費の値上げを要求したのは確かに事実で、平成元年2月25日のことです。
具体的に大石寺は御開扉供養を1,600円から2,300円へ値上げ、食事代を1,100円から1,500円へ値上げすることを要求しました。
これに対して池田名誉会長と秋谷会長は同年3月2日、阿部日顕氏と話し合いを持ち、大石寺側がこの値上げを取り下げる方向で決着しています。

最澄の密教と空海の密教。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回、検証したいのは次の日蓮の考えです。

最澄伝教大師)は比叡山法華経を中心にした戒壇を建立した。しかし後の円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)らによって密教が導入され、比叡山は謗法の山と化した。」


実はこれは正確ではありません。



日本に最初に密教を導入したのは実は最澄本人です。
日本で密教の存在を知り、その請来を望んでいたのは他ならぬ桓武天皇でした。遣唐使より密教の効能などが情報としてもたらされていたため桓武天皇密教に強い興味を抱いていたと言われています。


そこへ最澄が唐より帰ってきまして、彼は法華天台宗の教えとともに禅、念仏、密教等の経典群も日本に持ち帰ってくるんですね。
それらの請来目録の中に密教が入っていることを知った桓武天皇はすぐさま密教の伝法灌頂を希望し、勅文を出します。


真言密教等いまだこの土に伝ふることを得ず。然るに、最澄、幸いにこの道を得、まことに国師たり。宜しく諸寺の智行兼備の者をえらび、灌頂を受けしめよ。」


最澄の留学の目的は当時最高峰の法華経研究のためだったのですが、桓武天皇は現世利益のあるとされた密教に強く関心を持っていまして、最澄を「密教を伝えたがゆえに」評価したのです。
ですから日蓮の言う"朝廷が法華経に帰伏した"という見解は史実と異なります。


ただ桓武天皇の期待とは別に、最澄密教は正統系のものではなく、実は傍流の灌頂に過ぎないことが後に(空海の帰国以降)わかってしまうんですね。最澄自身がこのことに不備を感じていたことは間違いありません。円仁と円珍密教を学ばせたのはそういう理由なのです。


桓武天皇最澄を「日本に密教を伝えた国師」として評価し、「南都六宗」と言われた仏教諸派に対しては封戸の没収等、圧力を加えています。この背景には南都六宗が政権に関与する権力を持っていたことが考えられるでしょう。


最澄より伝法灌頂を受けた桓武天皇は806年に崩御平城天皇が即位したこの年、空海が膨大な経典群とともに日本に帰ってくることになります。すでに空海は前年に伝法阿闍梨位の灌頂を受けており、彼は正統な密教の教えとともに最新の経典等を多数持って帰ってきたわけです。


これがわかったから南都六宗は黙っていなかった。つまり最澄がやったことは単なる傍流の密教灌頂に過ぎず、桓武天皇の威光を借りたものに過ぎないとして南都六宗は一斉に最澄を批判することになります。
実際、平城天皇から代替わりした嵯峨天皇空海真言に理解を示し、その密教の正当性が高く評価されていくようになります。


つまり史実から考えれば以下のようになります。

最澄は8ヶ月の留学で法華経を中心にした経典群の研究を主に果たして帰国した。

②ところが桓武天皇法華経ではなく、最澄が持ち帰った密教の方を評価した。

③806年に空海密教の灌頂を受けて帰国。これが正統なものだと評価された。

④そのため南都六宗最澄密教を傍流として批判するようになった。

最澄は自身の密教理解が浅く、後の円仁や円珍密教の完成を託した。

という感じになるかと思います。