気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

御身を離さず常に御覧有る可く候。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会の活動家だった頃、日蓮の遺文(御書)を引きながら、よく担当幹部から指導を受けたものです。
ただその中には、当時から既に「それってそういう意味なのかなぁ」と疑問に思うような不思議な解釈がたくさんありました。




例えば『如説修行抄』の末文を見てみましょう。創価学会版御書全集ですと、505ページになります。

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末文に「この書御身を離さず常に御覧有る可く候」とあります。
当時幹部からこれを引用されて「御書はこの通り、いつも身から離さず持っていないといけないのだ」と言われました。
そんなわけで、当時私たちの周りの男子部員はみんなカバンの中に御書が入っていました。
「これは『如説修行抄』のことなんじゃないのかなぁ」と思いましたが、幹部によれば「だってこのページだけ切り離して持っているわけにはいかないだろ?」という、なんとも珍妙な解釈でした。




さて、あれから20年以上の月日が流れましたが、果たして今の創価学会の活動家たちは、今でも身から離さずに御書を持ち歩いているのでしょうか。
そんな人、もういません。
座談会でさえ御書を持参しないのですから。





池田大作氏はかつてスピーチや著作を通し、戸田城聖氏の言葉として「信なき言論、煙の如し」と言われていましたが、肝心の創価学会員の御書解釈こそが数十年ももたない「煙のようなもの」だったということでしょう。
日蓮正宗同様、創価学会もまた日蓮遺文を勝手に自己都合で解釈しては「煙のように」消えていく指導しか、もはやできないのかもしれませんね。