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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺日道から要法寺開基日尊への書状。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて富士門流八本山の一つでしかなかった上条大石寺は、かつて他の諸本山とともに通用があり、交流があったことは多くの史料からわかることです。
事実、大石寺の14世日主は、天正15年(1587年)に京都要法寺と通用の申し合わせをし、日目の本尊を贈ったりしています。これに対し、その返礼として要法寺側からは日興本尊が翌年に贈られています。
日主以降、大石寺15世日昌からは京都要法寺出身者が多く大石寺法主になっています。
疎遠な時期もありながら、そもそも京都要法寺と上条大石寺は連携をしていたと考える方が自然なことです。



少し歴史を遡ってみましょう。例えば大石寺4世日道は、建武2年(1335年)の正月、京都要法寺開基である日尊の遣いが大石寺に来たことを喜び、新春の祝いとともに「明年の秋に登山することを承知した」という旨を日尊への書状で書いています。



「追申候事小袖一送給候、尚目出度候新春之御慶賀自他申籠候、尚幸甚幸甚。
抑日目上人御入滅之後無御音信候條無心元思候処、此使者悦無極云云。日興上人御跡人人面面法門立違候。或同天目方便品不読誦或同鎌倉方迹門得道之旨立申候。唯日道一人立正義間強敵充満候。明年秋御登山承候、世出世可申談條毎事期後信候。恐々謹言。
建武二年正月十四日
         日道
謹上  大夫阿闍梨御坊  」
(日道『遣日尊之状』日蓮正宗歴代法主全書1-287ページ)

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ちょうど大石寺が方便品読不読問答であったり、さまざまな教義の相違が起こり、日道が苦労している様子が描かれています。日道はここで「唯日道一人正義立間」とまで言っているのですが、このことを大石寺の日道が日尊に相談しているのです。そもそも日尊が長く音信不通であったところ、この時の日尊からの使者が来たことを日道は大変に喜んで「此使者悦無極」とまで書いています。大石寺4世日道がここでは京都要法寺の日尊を軽視するどころか、遣いが来たことを心から喜び、自身の思いを吐露することさえしています。



ここからわかるように、上条大石寺もまた京都要法寺と同じく、かつては富士門流八本山の一つであったのであり、京都要法寺もまた同門流として認識されていたということです。