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少し歴史を遡ってみましょう。例えば大石寺4世日道は、建武2年(1335年)の正月、京都要法寺開基である日尊の遣いが大石寺に来たことを喜び、新春の祝いとともに「明年の秋に登山することを承知した」という旨を日尊への書状で書いています。
「追申候事小袖一送給候、尚目出度候新春之御慶賀自他申籠候、尚幸甚幸甚。
抑日目上人御入滅之後無御音信候條無心元思候処、此使者悦無極云云。日興上人御跡人人面面法門立違候。或同天目方便品不読誦或同鎌倉方迹門得道之旨立申候。唯日道一人立正義間強敵充満候。明年秋御登山承候、世出世可申談條毎事期後信候。恐々謹言。
建武二年正月十四日
日道
謹上 大夫阿闍梨御坊 」
ちょうど大石寺が方便品読不読問答であったり、さまざまな教義の相違が起こり、日道が苦労している様子が描かれています。日道はここで「唯日道一人正義立間」とまで言っているのですが、このことを大石寺の日道が日尊に相談しているのです。そもそも日尊が長く音信不通であったところ、この時の日尊からの使者が来たことを日道は大変に喜んで「此使者悦無極」とまで書いています。大石寺4世日道がここでは京都要法寺の日尊を軽視するどころか、遣いが来たことを心から喜び、自身の思いを吐露することさえしています。