気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

遺文の利用。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日の聖教新聞(令和3年10月16日付)に掲載された「御書の旭光を」を読んでいました。こんな御書でした。


「仮令(たとい)強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり」
(『善無畏三蔵抄』創価学会版御書全集890ページ)


この聖教新聞の記事では「池田先生が送る指針」として以下のような解説を付しています。


「深い慈悲から発する言葉には、心を打つ深い響きがある。邪な虚偽の言説は、いかに取り繕っても、いずれ見破られる。
人々の幸福と安穏を祈り、誠実に語り合う対話が、真の民主主義の成熟をもたらす。
生命尊厳の哲理、立正安国の信念に基づいた正義の師子吼こそ、時代創造の力だ。胸を張って真実を語り抜け!」



突っ込むところが満載で、どこから語ればいいのか、悩んでしまいますが……



まず『善無畏三蔵抄』という御書は、かなり長い遺文です。真蹟は残されていません。
創価学会というところは、大石寺同様、本当に真偽未決の遺文を節操なく使います。しかもそれが日蓮の思想であるかのように騙って平気なところがあります。
この聖教新聞での引用部は、『善無畏三蔵抄』の一番最後、結論部に出てくる部分で、わずか1〜2行でしかありません。ちなみに『善無畏三蔵抄』全体は御書全集で881〜890ページにわたって掲載されているので、全体はかなり長い御書になります。


ではここで説かれている「たとえ強い言葉であっても、人を助ければ真実の言葉、柔らかい言葉である」という一文は、どのような文脈で書かれているのでしょう。試しに創価学会員に聞くと皆一様に「わかりません」と言う筈です。ほとんど誰も全編などきちんと勉強していないからです。




『善無畏三蔵抄』の最後では、かつての師匠である道善房を、日蓮自身が破折するところが出てきます。
師匠であった道善房は念仏者でした。釈迦仏を拝まず、阿弥陀仏を5体まで作り、南無阿弥陀仏と唱えていました。日蓮は本来穏やかに話すのが礼儀ではあるけれど、師匠の高齢故に再び会うことも難しいと考え、思い切って強く師匠に阿弥陀仏を捨てるように言ったのです。この時、日蓮は「阿弥陀仏を5体作るのは無間地獄に5度落ちる」「伯父の阿弥陀仏を5体作って親である筈の釈迦仏を一つも作らないなら、不孝の人ではないか」と強い口調で批判しています。
その後、知らせが届いて法華経を持ち、また釈迦仏も造立したという話を日蓮は聞き、「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」と述べています。その後に出てくる部分が、先の聖教新聞『御書の旭光を』の部分です。



この遺文の内容に沿って話をするなら、念仏や他宗派に思い切って強く法華経の正しさを伝えていくということになります。
法華経の正しさを伝えることと、公明党の選挙支援をすることとは何の関係もありません。なのになぜこの遺文を通して語ることが「真の民主主義の成熟をもたらす」のか、私にはさっぱりわかりません。
こういう遺文の引用は、単に日蓮を利用しているだけです。日蓮と民主主義は何の関係もありません。もしもこのように日蓮遺文を利用して会員信徒を選挙支援活動に向かわせる意志があるとするなら、それは日蓮遺文に根拠のない行為であり、返って日蓮を貶めることに繋がると思います。



「根拠がない。」