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左京日教による大石寺9世日有教義の補完。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さてここ数日、左京日教(1428〜?)の大石寺教義への影響を述べています。
まず小林正博氏の論文「法主絶対論の形成とその批判」(『東洋学術研究』131号、東洋哲学研究所、1993年)に載る、左京日教の略年譜を紹介してみましょう。



正長元年(1428年)
誕生

文明11年(1479年)
日叶と称す。出雲馬来安養寺貫主、師匠は出雲妙蓮寺日耀。
日耀より両巻血脈(『本因妙抄』『百六箇抄』)を相伝され、書写。

文明12年(1480年)
『百五十箇条』(本是院日叶)
この頃、大石寺9世日有に師事。

文明14年(1482年)
大石寺日有死去。
南条日住と『有師化儀抄』を編す。

文明15年(1483年)
5月、堺を通過し西へ。
8月、宮崎定善寺日守、日教を受け入れ門末に批判される。宮崎「むかさ」に在住。

文明16年(1484年)
1月、『穆佐抄』

長享元年(1487年)
11月、『四信五品抄見聞』
12月、『五段荒量』

長享2年(1488年)
6月、『類聚翰集私』

延徳元年(1489年)
11月、『六人立義破立抄』
以後の事跡不明。


少し前の記事でも書きましたが、日教は大石寺日有に師事以降、次第に大石寺貫主を権威化し、現代の大石寺に繋がる教義を構築するようになります。
1483年以降、日教は宮崎の穆佐郷(現在の宮崎市高岡町小山田)に移住するのですが、これ以降の左京日教の著作を、大石寺14世の日主が書写し、判形を残していたことがわかっています。具体的には天正元年(1573年)に13世日院から付属を受けて登座した当時18歳の日主は、同年2月15日に左京日教の『穆佐抄』を書写しています。



これらの日主の写本のため、近年までこれらの著作が左京日教のものとは明らかになっていませんでした。
これらが左京日教の著作であることを明確にしたのは、『富士宗学要集』の編者でもある大石寺59世の堀日亨なんですね。
日亨は『富士宗学要集』の『類聚翰集私』の奥書で次のように述べています。


「『長享弐年六月十日上州上法寺に於て之を進す私ニ候間他見有るべからず候、刑部殿ニハ御授モ候ハバ悦喜申ベク候。左京』とあり、京字より斜に焼失すれども入文と同筆なるを以つて日叶の左京日教なるを知る、入文焼失の多丁は主師の補筆あれども表紙に及ばず、但し当時転写本ありと見ゆ、今は天和二年の嘉伝日悦の写本あるのみ。
又末丁に(『)理鏡坊日典より相伝・日主判』とあり、主師は本山十四世なり外にも主師の記入あるを以つて曽つて此本を主師筆と認めたる先師あり、日叶と日什(顕本宗祖)とを混視したる人あり、或は単に法則抄として著者不明としたるあり、左京日教の発見は全く愚僧の丹誠に成る。(中略)昭和十年十月十日日亨識す。」
(富士宗学要集2-355ページ)

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大石寺9世日有から相伝を受けたのが、当時わずか13歳の12世日鎮です(10世日乗と11世日底は日有よりに先に死去しています)。その後、日鎮の死後に大石寺13世日院はわずか9歳で大石寺の跡を継ぎます。日主は日院の後を受けた大石寺14世であり、貫主となった1573年当時、日主はまだ若干18歳という年齢です。
そのような中で、大石寺の教義の確立に若き日主が腐心したことが伺われます。実際、日有は「事の戒壇」という語を使っていますが、「本門戒壇御本尊」という語の初出は9世日有ではなく14世日主です(『日蓮正宗歴代法主全書』1-459ページ)。

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日有死去後、日有の化儀を纏め、大石寺の教義を補完した左京日教の存在があり、大石寺14世の日主は左京日教の著作から少しずつ現在の大石寺に繋がる教義を確立していったのだと、今の私は推測しています。



参考文献
小林正博氏「法主絶対論の形成とその批判」『東洋学術研究』131号、東洋哲学研究所、1993年