気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

印刷本尊は日興の本意とは異なる。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、大石寺にせよ、創価学会にせよ、現在これらの大石寺系教団が信徒に頒布している本尊は、全て「印刷」された本尊です。
つまり大石寺法主が書写した本尊を印刷し、(大石寺宗門ではそれに「開眼」を加えて)信徒に頒布する形をとっています。



しかしながら日興の『富士一跡門徒存知事』(寂仙坊日澄筆述)を見るなら「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由・諸方にその聞え有り、謂日向・日頂・日春等なり」(創価学会版御書1605ページ)とあり、本来日興門流での「形木」(印刷)による本尊授与は否定されるべきものの筈です。実際同抄では「日興の弟子分に於ては、在家出家の中に、或は身命を捨て、或は疵を被り、若は又在所を追放せられ、一分の信心有る輩に忝くも書写し奉り、之を授与する者なり」(同ページ)とまで書かれています。




つまり日興門流にあっては、本尊とは本来「篤信の信仰者に限って」「忝くも書写し奉り、授与するもの」なのであり、形木のような印刷による大量頒布は本尊軽視に繋がることを日興自身が危惧していたことになります。



大石寺59世の堀日亨は次のように述べています。



「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものではなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬いらるるもので、御開山の御用意はもちろんのことであるが、中興・日有上人はもとより、代々の写主が本尊の脇書する人名の即身成仏を示すものとなされておる。
しかるを、印刷にて間に合わすとは、本尊軽賤の至りであるが、時の情勢のいかんにより、または願主の信仰未決の時の暫定の仮本尊ならば、しばらく許すべきもあろうが、宗憲を去ること遠からざる御開山存命時代では、いずれの方面にあっても印刷の本尊の扱いは軽賤の罪におちいる」
(堀日亨『富士日興上人詳伝(下)』227ページ、聖教新聞社



一読すればわかるように、堀日亨は大量の印刷本尊は本尊軽視に繋がりかねず、あくまで「暫定の仮本尊」であると述べています。
とするならば、信仰心に篤く、教団への貢献の高い信徒に対しては法主自身が直筆の書写本尊を授与することこそが日興門流としては正しい本尊のあり方になろうかと思います。
とすれば、印刷本尊ばかりを信徒に頒布している現在の大石寺創価学会の姿勢は、日興の本尊観とは相容れない異流儀に等しく、日興が批判した日向等の門流の態度と変わらなくなってしまうのではないでしょうか。



参考文献
柳澤宏道『石山本尊の研究』(増補版)はちす文庫、2013年