いつもみなさん、ありがとうございます。
表書きと裏書きを載せてみます。
「一、日蓮聖人御影堂
一、法華本門寺根源
永仁六年二月十五日造立也
[裏書]
国主被建此法之時
願主 白蓮阿闍梨日興 花押
三堂一時可造営也
二月十五日 日妙 花押 六十歳
大施主 地頭石河孫三郎源能忠
合力 小泉法華衆等
大施主 南条七郎次郎平時光
仝 上野講衆中」
ここに書かれている、「本門寺根源」とは具体的にどこのことを指すのでしょう。
この「棟札」の裏書きに見られる「石川(河)孫三郎源能忠」とはいかなる人物でしょうか。
石川孫三郎能忠(よしただ)は、石川新兵衛宗忠(むねただ)の子にあたります。
石川新兵衛宗忠は鎌倉御家人となって北条時宗に臣従して地頭職につきます。富士上方重須郷等を領有し、石川家法華信仰の最初の一人となります。この後、日蓮本人から授戒、「道念日実」と号します。日興の『弟子分本尊目録』でも「石河新兵衛入道道念者日興第一弟子也」(『日興上人全集』125ページ)と記録されています。宗忠は乾元元年(1302年)2月1日に亡くなりますが、北山本門寺の大過去帳の記載によれば弘安10年没とされています。
石川孫三郎能忠は父の家督を継いで重須城に住み、日興を深く崇敬するようになります。
身延を離山した日興は正応4年(1291年)9月、上野庵室より重須郷丸山に移ります。この時、日興は丸山の風光を見て本門戒壇建立の理想地を感得したと言われます。山宮の石川城は天母山の下にあり、この天母山こそ「麿山神廟」の聖地とされていました。この「麿山」が「丸山」「満山」と変化して呼称されていきます。ここは天照大神有縁の地であり、それ故に日興もこの地に「本化垂迹天照大神宮」を建立することになります。
少し前の記事で紹介した日興の『与日目日華書』の末尾にも「満山衆徒中」と書かれています。
「『与日目日華書』について」
日興が住んでいたとされる「丸山」の場所は現在特定できないのですが、石川家の伝承によれば山宮薬師堂の南方、通称「やるけ山」と称される位置にあるようです。この釈迦堂が法華本門寺根源とされ、地元の石川家に伝承されて史跡案内の看板も建てられています。
「(前文欠)
合壱⬜︎
右者日れんしやう⬜︎[人]みゑいたう(御影堂)⬜︎⬜︎[たる]間、ひやくれんあさり(白蓮阿闍梨)の御房、妙源かししやう(師匠)たる間、いちえんふようにゑいたい(永代)をかきりてきしん(寄進)したてまつる所也。かのはうち(坊地)のさかい(境)わ、ひかし(東)はのほりみち(上り道)くね、きた(北)わよこみち(横道)くね、にし(西)はのほりみちくね、みなみ(南)なみき(並木)のよこくね也。このきしんしやう(寄進状)にまかせて、妙源かししそんそん(子々孫々)にいたるまて、いらん(違乱)わつらい(煩い)なし候はむ、ともから(輩)は妙源かあと(跡)をちきやう(知行)すへからす候。よつてきしんしやう(寄進状)如件。
正中二年十一月十三日
妙源 花押」
日蓮は『不動愛染感見記』で、太陽の中に愛染明王を、月の中に不動明王を感得しています。ここから常の所行に風光明媚な土地から太陽(日天)と月(月天)、そして金星(明星天)を賛嘆する信仰態度を持っていたことが推測できます。
大石寺の勤行というのは、現在、五座にわたって行われますが、その起源は五つの場所に移動して行われるものでした。そして朝の勤行では必ず初座に東天を向いて太陽に向かい読経・唱題をします。これは日蓮や日興門流が当時から太陽に向かって読経等を行なっていたことを示唆しているのかと思います。
したがって、石川孫三郎能忠が寄進した坊地に北山本門寺を建立し、天母山の丸山に法華本門寺根源の理想地を日興が感得し、そこに御影堂と本化垂迹天照大神宮を建立したことは史実として信用性が高いのではないかと考えています。日蓮や日興門流の信仰は、そのような富士山信仰や天照大神への信仰、また日天月天への信仰等、複合的な要素がさまざまに入り込んで形成されているものなのだと思います。
参考文献
石川修道「日興上人『本門寺根源』初期道場の位置について ー重須地頭・石川氏との関わりー」『現代宗教研究』1999年3月。