気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

幼少時の池田大作の生活苦。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会の名誉会長、池田大作氏について、彼の幼少時代について、少しずつブログで描いてみようかなあと思います。



以前、書いた池田大作氏に対する私の印象は
「羽振りがよい」
「おおらか」
「庶民的」
「大言壮語」
というものです。



「虚像を肥大化させた庶民的な指導者」



これら氏の性格は幼少時の苦労や経験から形成されてきた性格も大いにあるように感じます。



池田大作昭和3年(1928年)1月2日、東京都荏原郡入新井町大字不入斗の海苔製造業者・池田子之吉(ねのきち)と妻・一(いち)の五男として生まれました。
池田子之吉は、その父・池田五右衛門の三男で、この大作の祖父の代から海苔製造に従事してかなり繁盛した一時期もあったようです。央忠邦の『池田大作論』(大光社、昭和44年)によるなら、祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えもあるそうです。したがって、池田大作氏は江戸弁を話す純粋な日本人であり、彼が在日韓国人であるという説は基本的にデマでしょう。池田子之吉は五男の彼を「太作」と名付けました。本人が名前を「大作」に改名するのは、昭和28年11月のことです。



大正12年(1923年)には関東大震災が起こり、このために大森沖の地形が変化し、多くの海苔を恵まなくなります。
不入斗(いりやまず)は大森海岸に面し、隣接する糀谷や羽田とともに海苔養殖の適地でしたが、震災後は徐々に住宅地として開けていき、低地で雨が降ればぬかるみ、風が吹くと埃がたち、夏には蚊の巣になるという、居住にはあまり不適な土地になりつつありました。


子之吉は大作が2歳の頃(昭和5年頃)、不入斗から3キロほど離れた羽田町大字糀谷に移転して、海苔養殖と畑の兼業を始めます。
海苔の養殖は9月のひび立てに始まり、11月から12月に付着した海苔を摘み、2月頃に操業を終えます。残りの時期で農業等に精を出すこととなります。
糀谷には子之吉の弟宅があり、その家は機械化の上昇期で栄えたのに対し、移転後の池田子之吉の家業はふるわず、困窮感が強かったようです。
これには複数の原因があります。関東大震災による土地の変化に加え、昭和2年(1927年)、池田大作の生まれる前年には震災手形の処理問題に端を発する金融恐慌が起こります。中小企業や手工業社は休業や操業短縮を余儀なくされ、銀行貸出の引き締めもあり、倒産等の被害を被ったものも少なくなかったのです。
さらに追い討ちをかけるように昭和4年(1929年)10月、ウォール街の株式市場暴落に始まる世界恐慌が日本にも波及し、中小企業の倒産、失業者の増大を呼び起こします。



池田家の困窮は、庶民の水準のものではなく、さらに不安で過酷なものとなっていきます。
池田大作は五男でしたが、男8人、女2人の10人兄弟となり、文字通り「貧乏人の子沢山」という状況でもありました。
さらに池田大作が羽田第二尋常小学校2年生の時に、父の子之吉はリュウマチで倒れてしまい、5年間起き上がることができなくなります。そのため翌年に池田家は家を売り払い、再度同じ糀谷の小さな住宅に移転することになります。
この頃、長男の池田喜一は19歳、次男の増雄は18歳、三男の開造は14歳、四男の清信は10歳であり、長男や次男の年齢は昔なら一人前という頃であり、母の一の肩に降りかかった不安な家業・仕事を助けることができた。また池田大作自身もこの頃から家業の手伝いをなにくれとなく始めるようになります。



海苔作りは冬の寒い頃にも水を使うため、霜焼けあかぎれとは縁が切れませんが、力仕事ではないため、幼少の大作にも手伝うことのできる余地がありました。
作業は海中の「ひび」(海苔を付着させるための竹製の網のようなもの)に付着した海苔を摘み取ることから始まります。それを井戸水でよく洗って砂を流します。なおも海苔に混ざっているゴミを箸で丁寧に取り除き、洗い上がったものを包丁で細かく刻み、適度な濃さの真水に溶かして、葦の茎でできた海苔簀に流し張り、簀ごと日の出とともに天日に晒します。晴天なら午後には干し上がって完成ですが、乾いた頃には風で飛ぶのに気をつけなければいけません。



さらに昭和11年(1936年)、2・26事件が勃発します。この頃に長男の喜一は近衛師団に入り、以後は日中戦争開始、国家総動員法第二次世界大戦、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争というように、池田家の兄は次々と戦地へと応召されていきます。
若い働き手を奪われ、母の一は6人の子どもとリュウマチの父を身一つで養わなければならなくなります。この厳しさを身をもって受けたのが、五男である池田大作でした。



幼少時から経済的な困窮、辛酸を舐め、母親に尽くすことでしか自己表現を知らない池田大作の精神性は、この頃にすでに養われていたのだと私は考えています。「親孝行」をしきりに繰り返していた2000年代の池田大作の指導の根はこの辺にあるのだろうと推測します。ただただ池田氏が母に尽くして生きてきたことは疑い得ないからです。



央忠邦の『池田大作論』では、彼が小学校6年生の頃、修学旅行でお小遣いで皆にどんどん奢ってしまう様子が池田氏本人の言葉で描かれています。貧しい中で、しかし他人にものをあげてしまうような性格はこの頃から既にあったのかもしれません。



昭和15年(1940年)、池田大作尋常小学校を終えますが、学資に乏しく中学には行かず、羽田高等小学校(翌16年に萩中国民学校に改称)に入ります。この頃は彼の仕事に新聞配達が入り、もはや寝る間も惜しんで働くような生活になっていきます。
朝は午前2時か3時には起床、4時まで海苔張り、それから朝刊の配達をして登校。学校から戻ると乾いた海苔を剥がし、夕刊を配達。夜は海苔に付いているゴミを箸で取っていました。



昭和17年(1942年)、国民学校を卒業した池田は、先に兄が勤めていた新潟鉄工所に就職し、ミーリング工を始めます。それでも家業の手伝いを止めることはありませんでした。
そうこうするうちに虚弱体質だった池田は、過労がたたったのか、結核の症状が出始め、鉄工所へ行くだけで疲れてしまい、職場を事務手伝いに回してもらうようになります。
血痰を吐きながら働くようになった当時、日本はミッドウェー海戦に敗れ、敗色濃厚な状況に陥ります。前年の昭和16年から米は配給制となり、野菜を買うために行列に並ぶようになります。池田大作も買い出しに出かけ、千葉の幕張まで野菜や芋を買いにきたことがあります。



結核に蝕まれた体を養うための食料にも不足し、医薬品も不足。昭和20年には病状が進行し、結核痔瘻、中耳結核、鼻結核をも併発。茨城県鹿島の結核療養所への入院を決めましたが、満員で順番を待たなければなりませんでした。



糀谷の池田家は昭和19年(1943年)に強制疎開で打ち壊され、当時は大森の馬込に転居していましたが、糀谷周辺は4月15日の空襲で、全て焼け野原と化しました。
その日の夜23時過ぎ、B29爆撃機200機は京浜地区に来襲し、横浜、鶴見、川崎とともに大森、蒲田の城南地帯にも波状攻撃を加えます。
13日の爆撃とも合わせて都内では22万戸が全焼、3,300人の死者が出たと言います。
池田の移転先の馬込の家はこの時、難を逃れましたが、続く5月24日の空襲でひとたまりもなく焼失します。同日未明に都内の焼け残りの地区に飛来したB29爆撃機250機は、2時間にわたって無差別爆撃を行い、大森、品川方面も大火災になります。
池田大作は療養どころの騒ぎではありません。身一つで逃げるのに精一杯でしたが、なんとか助かり、一家は人に貸してあった蒲田区森ケ崎の家に同居することとなります。



やや文面が長くなってしまいましたが、これらが池田大作氏の幼少時の状況です。
池田大作は、経済的困窮、病気と言った世間の苦しみを受けながら満身創痍で生きてきたと言って良いでしょう。そしてこの頃から、庶民的な宗教指導者としての資質、庶民性、またそのように苦しんでいる人間に向ける眼差しのようなものを身につけたのだと思います。
池田大作氏を師匠として崇め奉る人たちの多くが「自分たちの苦労を理解してくれる存在」として池田氏を評するようになりますが、その原因こそ、彼の幼少・青年時代の生活苦にあるのだと思います。
そして池田大作氏は、次第に自分を大きく偽る虚像を作り上げるようになります。それは彼が苦労してきた人生観から築き上げられてきた、彼なりの処世術だったのだろうと思いますが、それについてはまた別稿を考えたいと思います。



参考文献
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年(原書1981年)
央忠邦『池田大作論』大光社、1969年