気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「相伝に有らざれば知り難し」って?




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、日蓮正宗の信徒、法華講さんの活動家さんと議論をした時、史料的な論拠を提示すると大抵の場合、しどろもどろになって回答不能になるか、話を逸らすことしかできなくなります。まあ、私自身、創価学会を退会する以前は、かつて創価班の広宣部で活動していたものですから、その辺はよく知悉しているつもりです。



で、史料から見れば矛盾だらけの教義しか語れない法華講信徒さんたちの好きな言葉の一つに「此の経は相伝に有らざれば知り難し」というものがあります。



つまり史料的なこちらの論証を全て煙に巻いて、「それは大石寺の御法主上人の相伝でしかわからないのだ」と逃げの一手を打つ、そういう一言なのです。
事実、この文章の引用は大石寺26世堅樹日寛の『撰時抄文段(愚記)』でも出てきます。また大石寺65世堀込日淳も「経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る。」(『日淳上人全集』1444ページ)と述べています。



では、この「此の経は相伝に有らざれば知り難し」という文章は、どこの遺文に出てきて、どのような文脈で使われているのでしょうか。
まあ、この辺は広宣部では散々に勉強したことなので、広宣部出身の方は「ああ、その話ね」と耳にタコができるくらい知っていることだと思いますが、読者の便宜のため、また狂信的な法華講さんとの議論で困っている方のためにあえて紹介してみたいと思います。



この文章がある遺文は『一代聖教大意』というものです。『一代聖教大意』は日蓮の真蹟が現存しませんが、保田妙本寺大石寺3祖日目の写本が遺されていまして、比較的信用性の高い遺文と言うことが可能かと思います。
では先程の文章を、前後とともに紹介してみます。



「問う諸経の如きは或は菩薩の為或は人天の為或は声聞・縁覚の為機に随つて法門もかわり益もかわる此の経は何なる人の為ぞや、答う此の経は相伝に有らざれば知り難し所詮悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四趣・八部総じて十界の衆生の為なり」
(『一代聖教大意』創価学会版御書全集398ページ)



さて、ここは問答形式になっていまして、質問では「法華経以外の諸経では菩薩や人天等のために説かれたのだけど、この法華経はどんな人のために説かれたのか」と質問しています。
回答は「この法華経については相伝でなければ知ることは難しい」とされています。



論点を整理します。
ここで書かれている内容は、あくまで「諸経」と「法華経」の相違についてです。文中の「此の経」と言う語が指しているのは明らかに「法華経」ですから、ここで対比されている二つは「諸経」と「法華経」ということになります。
そして法華経に関しては天台の相伝でなければ知ることができないとされ、具体的な対象を挙げています。
「諸経」と「法華経」の相違というのは、五重相対から言えば「権実相対」のことです。
『一代聖教大意』のこの引用部はあくまで法華経の対告衆について、諸経とは異なり、天台の相伝でなければ知ることができないということを述べた文に過ぎないということです。
日蓮正宗の三重秘伝とは、文上の法華経日蓮の題目との相対のことの筈です。文上の法華経を論証する天台の相伝を持ってきても、大石寺法主の正統性の担保にならないことは火を見るより明らかなことです。




で、このことをきちんと説明すると、狂信的な法華講さんは逆上してきます(笑)。しまいには「この文章も文底から読まないといけないのだ」「文底から読めば、この法華経も南無妙法蓮華経なのです」と無理矢理な反論をしてきます。
私はこんな風に答えます。



「ああ、わかりました。この文章の『法華経』というところは日蓮の題目のことなんですね。ところで『諸経』と『法華経』があって、『法華経』部分が文底から見て日蓮の題目なら、『諸経』の部分は文底から見て何に当たるんですか?」



大抵、法華講さんは絶句します。
そもそも『一代聖教大意』できちんと「諸経」と「法華経」が対比されて述べられている訳ですから、法華経を文底から拝するというなら、諸経は何になるのか、きちんと解釈を述べないといけないでしょう。



そもそもからして『一代聖教大意』は、諸経に対する法華経の優位性を述べたものなのであって、それ以上ではないのです。「相伝」という言葉が書かれていることをこれ幸いに引用して大石寺の正統性の担保に使ってみても、そもそも天台宗における法華一乗の相伝と、大石寺法主に伝わるとされる相伝を混同して、相手を煙に巻くだけの議論では大石寺の信仰も他者から信用されないというものです。




追記
広宣部では法華講さんがどう言い返すかを散々に勉強したもので、この部分はよく知られたところです。もしも読者の中に広宣部出身の方がおられれば「何を今更」と冗長な印象を与えてしまったかもしれません。すいませんでした。
しかしながら、文の本意を逸脱してまで大石寺法華講信徒さんはこの「相伝に有らざれば知り難し」という文章を引用したがります。まあ、それだけ彼らの教義が文献的・史料的な根拠に乏しく、無理矢理こじつけの解釈でも持ってこないと辻褄が合わないのでしょう。彼らにとっての教学とは「依義判文」であって、きちんと書いてあろうがあるまいが、大石寺の教義の「義」から「文」を歪曲するのも辞さないという姿勢なのでしょうから。