気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「読むこと」と「考えること」は不可分。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、私はこのブログで、自分が今まで信じてきた教義の再検証をいろいろやっていますけど、それは所詮「事実はどうなのか」「本当のところはどうなのか」「それは信じるに足るものなのか」というところを、もう一度頭をゼロにして史料や文献、客観的な材料から考え直そうとしているだけです。


で、さまざまな方に最近言われることなのですが、「気楽非活さんは特別だ」「私はそんなこと創価学会にいて聞いたことはない」「どこでそんなことを教わったんですか」等々、驚かれることが多いです。


本当に恐縮なのですが、私は別に誰から教わったわけでもありません。また特別に学問的な研究や訓練をしたわけでもありません。
私は本当にただの平凡な一学会員に過ぎなかったのです。


例えば法華経を読むにしても、最初はまともに読めませんでした。
活動家時代から池田大作氏の本を読むことは多かったですから、そればっかり読んでました。例えば『法華経智慧』『方便品寿量品講義』『御義口伝講義』『立正安国論講義』とか、対談集とか海外諸大学の講演集なんかですね。
それにひきかえ経典はやはり難しく、少しずつストーリーを押さえながら一字一字読んでいきました。亀の歩みのようなものです。


日蓮の遺文も読むのは好きでしたが、別段読むのが得意な方でもなかったかと思います。ただ広宣部に所属し、対顕正会や対妙観講対策の最前線に立つにあたり、どうしても細かく字面の意味を押さえないといけない。特に妙観講との対論ではほとんど同じ教義に立った立場でしたから、相手と論戦するのは大変でした。


活動家時代からずっと何かを読んできましたし、非活になってからも考えるのをやめませんでした。
今でもその姿勢は基本変わっていません。現在はネットもあり、さまざまなブログやネット情報を読むことも多くなりました。未だに読んで考えることを私は続けています。今でもわからないことはたくさんありますし。


要するにどこかで楽をして読むのも考えるのもやめてしまえば、そこで思考は停止してしまいます。
私は単にそれをしなかっただけです。
今でも考えるのをやめていません。
もちろん日によって忙しければ大して読むのも進まない日もあるでしょうが、少なくとも考えるのをやめなかったとは言えると思います。


活動家時代は自身の教学の研鑽が組織にとっても大切であり、ひいては創価学会全体にとっても大切であると勝手に自惚れ気味に考えていたこともあります。が、今はそんな考えはとうに捨てました。自分の才能のなさもよくわかりますからね。


私は「考えること」と「何かを読むこと」は不可分で切り離せないと考えています。
読もうとしなければ、自分の思考のスタンスを人は客観的に見ることができませんし、そんな読まない方が決まって堂々巡りのステレオタイプの議論に循環するだけでしょう。


同じものを読んでいれば、同じ思考になります。違うものを読めば違う思考になるでしょう。要するに、大石寺系信徒さんは虚心坦懐に読み続けて考え続けることをどこかで停止することが信仰だと勘違いされているのかと思います。


人間には考える自由がありますが、考えることを放棄することは人間の最大の特権を自ら手放して、ドグマに隷属することを無言のうちに認めることになると思います。もちろん人には考える自由とともに考えることをやめる自由もあるのでしょうけど、それは少なくとも私の生き方ではないということです。