気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

完器講のこと。






いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、大石寺に江戸時代末期頃、存在した「完器講」という信徒集団を多くの方はご存じないかもしれません。
私もさほど詳しい訳ではありませんが、私の知っているところを簡単に紹介してみましょう。


江戸時代後期のことですが、日蓮宗日朗門流に堅樹院日好という人がいました。この日好は明和9年(1772年)に富士大石寺に帰伏します。
ところが、ほどなく彼は大石寺への批判を重ねるようになり、離反して異流儀を唱えるようになります。


日好は大石寺に対して「大石寺折伏をせず、自行の研鑽に明け暮れているので法水が濁っている」として大石寺を批判します。
日好派は自分たちこそ日蓮日興の正統であることを主張して「四箇の格言」を強弁するようになります。更には「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」として宗祖直結の「己心本尊説」を主張するようになります。それにしても現在の創価学会の言い分とさして変わらないことには改めて驚かされます。


やがて彼らは江戸幕府の「自讃毀他の説法停止」の法令違反として、幕府の取り締まり対象になります。主導者の日好は逮捕され、安政年間に37歳で三宅島に流罪となります。後に利島に流され、38年間の流罪生活を送った後、文化9年(1812年)に日好は74歳で亡くなります。


日好の死後、彼の教義は門下の臨導日報に引き継がれ、勢洲亀山藩三重県亀山市)の後藤増十郎と妻の妙聴が中心となって、江戸に「完器講」が組織されるようになります。
やがて日報も江戸幕府に捕えられ、増十郎も流罪となります。その後は増十郎の妻の妙聴が中心となって勢力を拡大するようになります。


これに対して反論したのが、大石寺52世の鈴木日霑(にちでん)です。
日霑は『異流義摧破抄』を著して日報を批判。その後、日報が『聖語明鏡顕魔論』を著して反論しますが、日霑は更に『叱狗抄』を著し再批判を行います。
日報は明治6年1873年)に亡くなりますが、この日報の門下であった佐野広謙(妙寿日成尼)と冨士本智境(日奘)の二人が鈴木日霑に再び帰伏することになります。


その後、佐野ら二人は完器講の講員たちに大石寺帰伏をするように説いて回ります。結果、徐々に完器講のメンバーは大石寺の信徒に帰伏し、明治中期に完器講は組織としては実質的に消滅することになります。


実はこの「完器講」(堅樹派とも呼ばれる)だったメンバーたちは、その後、大石寺創価学会に大きく影響を与えることになります。


例えば日報の門下だった佐野広謙の門下には、大石寺59世堀日亨、62世鈴木日恭がいます。
また創価学会の初代会長を入信させた三谷素啓は完器講の元メンバーです。顕正会の前身である妙信講初代講頭だった浅井甚兵衛(浅井昭衛の父)は、三谷素啓の流れの目白グループに所属していまして、品川の妙光寺の信徒でした。
妙光寺は初代住職が冨士本智境氏です。
つまり牧口常三郎と浅井甚兵衛は完器講つながりの弟子同士ということになるかと思います。
そして更に付言すれば、牧口常三郎戸田城聖は三谷素啓が亡くなった後、完器講の佐野広謙尼の門下である堀日亨に接近するんですね。


そもそも教義的に己心本尊説を主張し、自分たちの正統を主張するのは完器講がルーツであり、牧口常三郎戸田城聖は三谷素啓や堀日亨から、そのような信仰態度を学び、徐々に創価学会として先鋭化していったというのが実際の史実に近いのかと私は考えています。