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「釈迦一仏にかぎりたてまつる」
「釈迦如来のたましい我が身に入り」
「釈尊を本仏とする文証」
佐渡以降の諸抄でも、例えば文永9年の『祈禱抄』(真蹟身延曽存)において「釈迦仏独り主師親の三義をかね給へり」とし、釈迦仏一人のみを三徳を備えた本仏として認めています。
「我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人・能為救護とはげませ給ふ、其の恩大海よりも深し其の恩大地よりも厚し其の恩虚空よりも広し」
(同886ページ)
佐渡以降の建司元年の『神国王御書』(真蹟:京都妙顕寺蔵)でも「釈尊を本尊とし」という一文が出てきますが(同1525ページ)、日蓮は明確に釈迦のみを一切衆生有縁の仏と考えており、自身が釈迦を越える本仏であるとする発想は、少なくとも信頼できる真蹟から判断される限り日蓮にはなんら見られません。