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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日常置文に見る厳格な文書管理。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて以前、日蓮遺文の文書管理と保存に関して、日蓮富木常忍に信用を置いていたことを書きました。


富木常忍と文書の管理体制」


富木常忍は後に出家し、常修院日常と名を改めますが、この人物は下総国の守護・千葉介頼胤の被官でしたから、典籍や文書の保存管理には十分な知識を持ち合わせていました。またこのことから当時の鎌倉幕府というものが、文書の管理を重要視していたことがわかるかと思います。


出家後の日常は中山法華経寺の文書管理にその経験を大いに生かしました。膨大な日蓮の遺文が中山法華経寺に多く伝わったのは彼の功績によるところが大きいでしょう。


日常は中山法華経寺の基礎を固めるにあたり、日蓮真蹟遺文を初めとする多くの文書、典籍の護持を中心に据えました。常忍は永仁7年(1298年)3月4日に『日常置文』を定め、同6日には『常修院本尊聖教事』と題した文書の目録を完成します。日常はその20日後に84歳で亡くなります。
当然のことながら、日常が意図した聖教や文書の管理体制は、死期を察して急ごしらえに構成されたものではなく、実際上は既に実行されていて、それを日常本人が亡くなる前に成文化して残したと考えた方が自然かと思います。


ではこの『日常置文』に実際にどんなことが書かれているのか、一部を紹介してみます。原文は漢文なので、読み下しにしてみましょう。


定め置く條條のこと。
一、聖人の御書并に六十巻以下の聖教等、寺中を出だすべからざるのこと。
右、聖教を惜しむこと法慳に似たりと雖も、借り失うにおいては尚彼よりも甚し。仍て、何の大事有りと雖も、当寺の困外に出すこと、一向之を停止すべき事。
但し、至要の時は、道場に於いて之を被見するのこと、制の限りに非ず。
一、聖教殿居の事。
日常在生の時の如く、一分の懈怠も無く之を勤めらるべし。」
(日常『置文』日蓮宗宗学全書1-189ページ)


これを読むと日常の厳格な文書管理への意志が強く感じられます。
まず寺の外に文書を持ち出すことを固く禁じています。「一向これを停止すべきこと」と書いているように、文書の散逸を回避するために払った日常の意志を強く感じます。
そして文書の管理は「聖教殿」とあるように、なんらかの書庫が当時から設けられており、そこに「一分の懈怠もなく」と書かれていることから、恐らくは担当の僧侶が四六時中書庫に詰めて、遺文の厳格な管理をしていた様子が伺えます。


中尾堯氏はこのことについて次のように述べています。


「教団の基礎がまだ固まっていない当時、火災や盗難等の予期しない事故によって、掛け替えのない日蓮真蹟をはじめとする聖教や文書が失われることを何よりも憂えたのである。実際には当時は日蓮の後継をめぐって門流間の対立や抗争が激しく、このために日蓮真蹟の曼荼羅本尊や聖教等の争奪が行われたことは、記録によくみられるところである。」
(中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』165ページ、吉川弘文館、2002年)


別に私は中山法華経寺の現在の教義になんら共感などしていませんが、少なくとも当時の中山日常が文書管理に厳格な体制で臨んだことは間違いない事実かと思いますし、またその理由こそ門流間の後継・正嫡争いの抗争であったのでしょう。
つまり日蓮門流は、日蓮没後すぐから門流同士で正嫡争いを繰り広げて「我こそが正統である」と言って分裂をしてきてしまった、というのが偽らざる日蓮門流の実態なのかと思います。そう考えると例えば富士門流大石寺系教団の離合集散もよくわかる気がしてきます。









参考文献:
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年
日蓮宗宗学全書』第1巻上聖部。