気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日朗の富士訪問。





いつもみなさん、ありがとうございます。
最近どういうわけだか、読者の方から感謝されることが多いです。


「気楽非活さんのお陰で、大石寺創価学会の教義の浅はかさに気づきました。」
「気楽非活さんのブログを見て、学ぶことができました。」
等々の声です。


私としては非常に恐縮です。同時に私のこのようなブログが、それなりに大石寺教義の客観視に利するところも多いようで、そのことにはとても驚いています。ありがとうございます。


さて今回は五老僧と日興の関係についてです。
大石寺系教団では一般に、六老僧の中で日興と他の五老僧とは関係が義絶したと考えられていますが、史実をみるとどうもそのような関係ではなく、むしろ「日向と他の五人との対立」という構図に近いことが見えてきます。


「『五一の相対』を考える」

「日興は四老僧と敵対していない」


加えて今日指摘したいのは、大石寺4世日道の『三師御伝土代』の記述です。

大石寺日道の記録によれば、正中年間(1324〜1326)に富士山の日興の元を五老僧の日朗が訪ねており、日興を地涌千界の眷属と褒め称えています。



「日朗上人去ル正中の頃冨士山ニ入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし貴とむべし。
又日頂上人ノ舎弟寂仙房日澄鎌倉五人の中の燈と思て眼目と仰くところに日興上人に御帰依申シて冨山に居住す、」
(日道『三師御伝土代』富士宗学要集5-10ページ)


大石寺4世日道は、日興の新六人の弟子の一人です。加えて日道の『三師御伝土代』は日蓮の誕生日を2月16日と記録している、門下中最古の文献であり、信頼性の高いものです。またこれは同時に大石寺に伝わる正文書でもあります。



つまり日興と日朗はなんら対立関係になかったことがここからも推察できるかと思います。


ちなみに日蓮宗側は「五一相対は、日興離山の原因というよりはむしろ、日興の身延離山後、日興の遺弟が関東学派との対立意識の下に両派教学を特色づけんとして成立させたものである。」(日蓮宗事典刊行委員会、84ページ、1981年)としています。