戸田城聖という人。
戸田城聖という人はあまりに特異な人でした。
名前は何回も変える、宗教家でありながら事業家としての側面を持ち、金融業を始めるなど枚挙に暇がありません。
◯牧口初代会長の作った組織に「部隊長」とか「参謀」とか軍隊風の呼び名の役職を与えて、牧口氏以来の伝統で軍歌調の「日本男児の歌」等を歌う。
◯御書講義も指導も酒を飲み、タバコを吸いながら平気でする。他の宗教の悪口も平気で、利益と罰論を徹底的に唱える。
◯「広宣流布の模擬試験」と銘打って、総本山を大きな車駕で乗り回し、本山内で豚を屠殺して豚汁をドラム缶で作り、将来弾圧を受けた時のためにと豚汁を会員に食べさせる。そのためのお椀と箸まで持参を徹底させる。
◯姓名判断に異様な興味を示し、十代の頃から名前を変え続ける。
1900年(明治33年)2月11日出生時
「甚一」
年月不明(1917年以前)
「桜心」
1917年(大正6年)2月22日
「桜桃」
「清通」
1918年(大正7年)5月3日
「雅晧」
1921年(大正10年)
「博方」
年月不明(1943年入獄前に改名)
「城外」
1944年(昭和19年)2月23日書簡にて
改名を考えている。候補は、
「馨雅」
「城聖」
「雅公(仁)」
「雅晧」
「剛弘」
戦後(1945年以降)
「城聖」
…………まあこのへんで、やめておきますが、戸田城聖が現在の創価学会に与えた影響って大きいと思います。戸田門下生の柏原ヤスさんとか、和泉覚さんとか、辻武久さんとかの指導がどこかカルトっぽいのも戸田氏の影響でしょうね。「題目をあげて漁に出たら、山のようなイカの大群が!」とか、ものすごい現世利益を強調する指導をするんですね。
同時に戸田会長は情動的に訴えるような指導もする。今が大変でもさあ、辛くてもさぁ、歯を食いしばって題目あげて折伏しようよ、きっと助けてあげるからとか。
つい言われた方も引き込まれてしまう。余談ですが、そういう貧しい人や蔑まれてきた人への情動的な指導を池田氏も見せることがありました。
その情動的な指導、大雑把な庶民臭い人柄に当時多くの人が心惹かれた。だから創価学会に貧しい人たち、病人たち、どこにも行けず路頭に迷っている人たちが光明を見出したんでしょうね。
そんなところが池田名誉会長も少し似てると思います。
問題は、それが日蓮仏法なんだと勘違いしてしまったことでしょう。
幕府と直接語り合うという時点で、民衆仏法という視点とは違うと私は考えています。
それなのに、創価学会は日蓮思想を民衆仏法と呼んだ。一方的な視点だけで日蓮を切り取り、それをあたかも本質であるかのように偽装し、折伏がまるで闘争であるかのように偽装し、社会的な弱者を拾い上げてしまったのです。
その最初の責は、やはり戸田城聖にあったと考えるべきでしょう。