気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自ら求めていくこと。



今、私が個人の信仰上の問題で取り組んでいること、学びたいこと、教わりたいこと、知りたいこと、わからないこと等々をいろいろ列挙してみます。

私は元来、創価学会の活動家だったわけで(まだ退会はしていませんが・笑)、昔は学会の活動ばかりしていたので本当に勉強不足を感じています。



1、日蓮真蹟遺文の研究について
創価学会版の御書で日蓮を読むことに慣れてしまったのですが、そもそも偽書説が確定してしまっている御書等々も少なくありません。
録内に収録されているからといって、真蹟曽存または現存していなくてもその遺文を日蓮の作品として論ずるにはそれなりの説得力のある根拠を示す必要があります。
中尾尭『日蓮真蹟遺文と寺院文書』(吉川弘文館、2002年)を読んでいますが、読めば読むほど、自身の勉強不足を感じます。
日亨版に代わる御書全集の出版を創価学会は将来的に独自に企図しているのか、私にはわかりかねますが、少なくとも信仰者が自身で日蓮の思想を語る際に何らかの形で真蹟遺文の根拠や自身の見解を示すことは信仰者としては必要なことでしょう。



2、「三世諸仏総勘文教相廃立」の研究
いわゆる「総勘文抄」ですが、この書の読解をするためには、まず文献学的な手続きをきちんとしておかないといけない。
この書は真蹟が存在しませんが、平賀本土寺に写本が存在します。中山法華経寺3世日祐の『本尊聖教録』他、この御書の存在を確認できる文献を読みたいです。というのは日蓮の著作の中でこの御書は内容的にもやや異色な御書なんですね。録内に含まれているとはいえ、偽書説も多く存在し、そのへんの外堀を埋めて内容に入っていかないといけない。真筆が現存しない以上、日蓮真撰を完全に裏付けることはできず、第一資料として使用することはできないのですね。まあでも別稿で書いたように内容を公表するかどうかはまだ決めていません。とりあえずやってみようかなぁと。こんなこと書いてたら途中で挫折しそうになってきましたが(笑)。考えたら真偽未決の文献ですから、説得性は持ち得ないのですが、それを真蹟とする立場を示しつつ、論を展開してみたいです。



3、万年救護本尊のこと
大石寺18世日精は「富士門家中見聞」の日興伝の項で、弘安2年に日興に与えられた曼荼羅とは保田妙本寺の万年救護本尊であるとしています。日精はここで万年救護本尊が日興から日目に伝えられ、現在は保田に存在すると書いています。
日亨氏はこれを誤りとしていますが、この記述を基に、「日興跡条条之事」を日興真蹟だと仮定し、日目に伝えられた御本尊がこれだとする仮説もここから成り立つわけです。ただ文永11年に著された万年救護本尊が弘安2年に日興に与えられたとする記述が、この日精以外の文献にはあるのかがやや疑問です。また日目伝の項では「日興が身に宛て給ふ所等とは是板本尊の事なり今に当山に之有り」と書かれていて、日精の記述が一貫していないことも確かではあります。




4、日蓮密教からの影響
実は日蓮は相当程度、密教を学んでいまして京都にて覚鑁(かくばん)の『五輪九字明秘釈』の書写をしています。
『五輪九字明秘釈』が真言宗秘蔵の書であることは間違いなく、この書を書写できる人は限られていたはずです。とすると日蓮は理性院血脈の相伝を受けていた可能性があります。建長6年の「不動愛染感見記」では「大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承」と書かれていて、日蓮が自身を大日如来から相承を受けて23代目に当たると述べています(画像参照)。この原本は保田妙本寺に現存し、また京都要法寺日辰の『祖師伝』ではこの書が日興から日目に付属されたことが書かれています。
日蓮真蹟本尊の中にもわずかながら、胎蔵界大日種子を梵字により勧請するものが存在していることもまた事実です。
そして日蓮は、智証著とされる『円多羅義集唐決』の書写をなんと17歳で行なっています。
日蓮の四教について、天台智顗の『四教義』から学んだと考えられますが、若き日の日蓮はむしろこちらから四教義を学んだとする仮説も成り立つわけで、非常に興味深いところです。

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5、日蓮の戒についての考え
阿闍梨日昭には「法華円頓戒血脈相承譜」という書が伝わっているのですが、そこに「日蓮阿闍梨 日昭」と記されているとのこと。
この書が池上本門寺に現存しているようなのですが、日蓮の思想にはやはり授戒があるのではないか。比叡山とかで授戒を受けるのではなく、日蓮自身が授戒する、そういう場があったと考えています。
本来、戒壇というものは、戒を受ける場だったわけです。そこから戒壇ということの意義もいろいろ考え直すことができる気もします。
創価学会日蓮正宗から破門されたので、入会の際に「御授戒」を行わなくなりました。しかし伝統的に入信の儀式で「御授戒」が存在するならば、その起源はやはり日蓮本人に求められなければならないでしょう。「戒体即身成仏義」という御書ももう一度読まれるべきだと思います。
この戒体の問題を考えるきっかけになっているのは西山茂編『本門戒壇論の展開』(本化ネットワークセンター、2015年)です。ここでは創価大学教授の中野毅氏による創価学会戒壇建立運動の意義等、また国柱会・森山真治氏による田中智学の本門戒壇思想の説明、その他各門流の戒壇思想が語られていて、非常に興味深いものがありました。




つらつらと書いてしまいましたが、わからないこともまだたくさんあるので、見当はずれなことも多いかもしれません。これから勉強しますので、すいません。
信仰って自分で自然に知りたいと思って自分で求めて学ぶことなんだと思っています。組織に頼るものでもないし。
まして組織が自分たちのことを「創価学会仏」の呼んで権威化を図っている団体なら、そんなところの幹部になんて教わりたくもないですよね。



日蓮の本当の心はどこにあるんだろうかと。
誰もそれをわかったわけではないんです。けれど求めていくことはできますよね。
日蓮の本当の心とは何だったんだろうと、探り続けていくことが本当の「求道」なんじゃないでしょうか。
かつては創価学会の活動家だった自分ですが、その呪縛から離れて自身の本当の信仰とは何なのかを求めるために、このブログも書いていくつもりです。ただ創価学会を批判するだけなら誰でもできるでしょう。今更批判しても何も変わりませんから、それなら自分でわずかでも自分が学びたいことを素直に学んでみたいなぁと。
それで他人に笑われるなら笑われるでも別にいいんじゃないかなぁと今は考えています。恥をかいたとしても、それがありのままの自分なんですから。