気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺の本仏説の変遷。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は大石寺の教学の編纂を簡単に見てみたいと思います。
ブログでは各論について、検証をしてみましたが、今まで書いてきた大石寺教学、とりわけ大石寺の本仏説の変遷を歴代法主から概観してみましょう。
 
 
 
 
釈迦本仏説
 
日興(大石寺2祖)
釈迦本仏説
本門寺構想(三時弘経次第)
 
日目(大石寺3祖)
釈迦本仏説
 
日道(大石寺4世)
釈迦本仏説(三師御伝土代)
日興と日朗の和解説
 
日有(大石寺9世)
日蓮本尊説
大石寺本尊堂説
 
日主(大石寺14世)
本門戒壇御本尊という名称の初出
御虫払法要記録、要法寺との通用を認可。
 
日精(大石寺18世)
御影堂日蓮本尊説、本門戒壇本堂
門下から三鳥派日秀、日目再誕説
随宜論、造仏読誦
 
日寛(大石寺26世)
六巻抄、日蓮=釈迦同仏の本仏説
戒壇本尊究竟説
 
 
 
……という風になるかと思います。
日蓮を本仏とする説は、日蓮日興の時代に全く見られません。日道の『三師御伝土代』でも日蓮の本地が「上行菩薩の後身」としているので、本仏は日蓮ではないのです。
 
 
「日道『三師御伝土代』を読む」
 
 
これが変わってくるのが、大石寺9世日有です。日有は北山本門寺を御影堂故に「母の寺」とし、大石寺を本尊堂が優れる故に「父の寺」とします。ここから戒壇本尊偽作説の可能性が高い人物として日有が浮上してくるのですが、実は日有は日蓮を「本尊」としていて、まだ「本仏」とまでは呼んでいないのです。事実日有は『有師化儀抄』で「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(富要1-65)と述べています。

 
日蓮本仏説の萌芽」
 
 
この日蓮本尊説を長らく踏襲されてきたのが大石寺の歴史です。例えば大石寺18世日精は御影堂を建立しましたが、曼荼羅本尊の前に日蓮御影を安置する形を取りました。大石寺旧信徒や伝統講の人たちの本尊にもきちんと御影が祀られています。事実、八王子の創価学会・東京牧口記念会館の「牧口顕彰室」にある牧口常三郎氏の本尊の前にも日蓮御影が置かれています。
 
 
この日蓮本尊説が日蓮本仏説に変わるのは、大石寺26世日寛からです。ところが、日寛は日蓮を本仏とする場合、日蓮を「釈迦と同体の本仏」とするのです。つまり日寛は、日蓮と釈迦が同一の仏としていることになります。
 
 
日蓮と釈迦は同体か別仏か」
 
 
日寛は『末法相応抄』で、きちんと「本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事なり」(『六巻抄』174〜175)「本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり」(同180)としています。日寛にあっては日蓮も釈迦も同じ仏なのです。

 
では日蓮が釈迦を超える「末法の本仏」であるとする説は、いつから大石寺に出てきたのでしょう?
実は日蓮と釈迦の別仏説が出てくるのは、昭和に入って創価学会出現以降のことです。
 
 
ここからは推察になりますが、恐らくは創価学会の出現以降、狸祭り事件から創価学会から大石寺教義への干渉が過大になります。狸祭り事件では『本尊三度相伝』に見られるような神本仏迹説が戸田城聖によって否定され、本山は戸田氏の登山停止措置によって対抗するのですが、徐々に大石寺は懐柔され、創価学会寄りに教義を転轍するようになっていきます。
 
 
 
詳細は別稿にまた譲りたいですが、恐らく日蓮と釈迦を別仏とする本仏説は、昭和期の創価学会から出てきたもので、それが次第に大石寺教義を侵食する過程で定着したものと私は考えています。
 
 
 
 

 

導師本尊と『授職灌頂口伝抄』

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は以前にも書いた、日蓮正宗の謎の教義「導師本尊」(導師曼荼羅)についてです。
このことに関しては以前にも何度か書いているところです。
 
 
「導師曼荼羅について」
 
「『導師本尊』と『未来本尊』」
 
 
導師本尊は日蓮正宗の葬儀の際に奉掲されるもので、本尊左右両肩には「毎時作是念以何令衆生」「得入無上道速成就仏身」と書かれ、また本尊下部中央、ちょうど日蓮の左右の「天照大神」「八幡大菩薩」の書かれる位置に「五道冥官」「閻魔法王」と書かれています。
日蓮真蹟本尊にはこのように書かれた本尊は存在しません。また日蓮が亡くなる時に提げられた本尊は「臨滅度時本尊」ですが、その相貌は当然のことながら導師本尊とは全く違います。また奇妙なことですが、日蓮正宗の葬儀で導師本尊を提げる場合、葬儀の導師は本尊を背にして、棺に向かって読経唱題をする形になります。
 
 
ところで、この導師本尊の下部に書かれる「五道冥官」「閻魔法王」が併記されて書かれる例は、日蓮真蹟遺文に全く見られず、何と偽書説の可能性が高い『授職灌頂口伝抄』に出てくるのです。
具体的に引用してみましょう。以下の画像は平楽寺版『日蓮聖人遺文全集』上巻収録の『授職灌頂口伝抄』で、同1039ページのものです。

 
『授職灌頂口伝抄』は録外が初出で、中山系の本成房日実の『宗旨名目』(寛正2年、1461年)にその名前が出てきますから、日蓮滅後180年後に出てきた文献であり、成立はほぼ室町時代室町幕府の8代将軍足利義政の時代にあたります。

 
もちろん同書は真蹟も古写本も不存、日蓮真蹟に見られない「血脈」の語が見られ、ほぼ偽書と考えられています。
とするならば、日蓮正宗は「導師本尊」の教義を作った際、ほぼ偽書とされる『授職灌頂口伝抄』の文から勝手に本尊に「五道冥官」「閻魔法王」と書き、それを勝手に「大石寺相伝」と偽ったことになろうかと思います。もしそれが大石寺唯一の相伝なのであれば、なぜ室町時代中山門流の日実が『授職灌頂口伝抄』を知っていたのかということが不自然になるでしょう。あるいは大石寺相伝というものが当時からさほど秘匿もされず、中山等の他門流に容易に知られるようなものに過ぎなかったことになります。
 
 
 
 
 

 

創価学会版御書全集に収録されない遺文について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価学会版の御書全集は、日蓮真蹟遺文だけで集成されたものではありません。当然ながら『御義口伝』『百六箇抄』『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』など真蹟も時代写本も存在しておらず、古来より偽書説の可能性が高い遺文ですが、未だに創価学会版御書全集には収録され続けています。
 
 
 
それなら創価学会は、もしかすると日蓮真蹟現存・不存に関わらず、日蓮遺文と称されるものを収録する方針なのかもしれません。
ところが、創価学会版の御書全集には収録されない御書がまだまだたくさんあります。
具体的に御書名を挙げてみましょう。
どうでしょうか? 創価学会日蓮正宗の信者の皆さんから見たら「聞いたことがない御書ばかり」ではないでしょうか?
 
 
『尼殿御書』(真蹟中山)
『回向功徳抄』
『衣座室御書』
『戒之事』(真蹟静岡本覚寺
『戒体即身成仏義』
『下方他方舊住菩薩事』(真蹟中山)
『行者仏天守護抄』
『堯舜禹王抄』
『五十二位図』(真蹟京都本法寺
『後五百歳合文』
『今此三界合文』
『三八教』(真蹟京都妙顕寺
『三種教相』
『色心二法抄』
『此経難持十三箇秘決』
『師子王御書』
『十王讃歎抄』
『秀句十勝抄』(真蹟中山)
『十二因縁御書』
『授職灌頂口伝抄』
『成仏法華肝心口伝身造抄』
『諸願成就抄』
『事理供養御書』
『聖人御系図御書』
『神祇門』
垂迹法門』
禅宗天台勝劣抄』
『善神擁護抄』
『總在一念抄』
『即身成仏図』(真蹟中山)
『大黒天神供養相承事』
『大黒天神御書』
『大黒天神相伝肝文』
智慧亡国御書』
『注法華経』(真蹟玉沢妙法華寺
『当体蓮華抄』
『得受職人功徳法門抄』
『読誦法華用心抄』
『日朗御譲状』
『日本真言宗事』
『女人往生抄』
『野兎御書』
『八大地獄抄』
『万法一如抄』
『彼岸抄』
『不可親近謗法抄』(真蹟中山)
『不動愛染感見記』(真蹟保田)
法華経大意』
『法華行者値難抄』(真蹟中山)
法華宗内證仏法血脈』
『法華大綱抄』
『法華和讃』
『本寺参詣抄』
『本門戒体抄』
末法一乗行者息災延命所願成就祈禱経文』
『無作三身口伝抄』
『無常遷滅抄』
立正安国論広本』(真蹟京都本圀寺)
『六凡四聖御書』

(上の画像は平楽寺版収録の『戒体即身成仏義』『成仏法華肝心口伝身造抄』のものです。)
 
 
どうでしょうか? これらの御書を創価学会大石寺系の信者さんは読んだことがあるのでしょうか?
恐らく存在すら知らないのではないでしょうか?
上記に挙げた御書は、私が知っているものを簡単に拾い上げただけのもので、見落としているものや、漏れているものがまだまだあるでしょう。
『御義口伝』や『諸法実相抄』のような真蹟不存の御書も収録するというなら、なぜ上に挙げているような御書は収録されていないのでしょうか。しかも( )かっこ内で所在が挙げられたものは、日蓮の真蹟が現存するものです。
 
 
どの御書を収録して、どの御書を収録しないのか、基準が示されなければならない筈なのにそれがない。真蹟やどの古写本から翻刻されたのかという凡例がない。それなら創価学会版の御書は単に過去の先人の功績を勝手に成果だけ拝借して作っている借り物の教学ということになります。
 
 
 
 

 

日目も題目板碑を作っていた。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
最近、読者の方から連絡をいただきますが、「ブログを読んで創価学会の嘘に気付き、退会しました」「ブログを読んで日蓮正宗の欺瞞を改めて実感し、離宗しました」との多くの声を聞きます。改めてありがとうございます。
多くの方が創価学会日蓮正宗大石寺系教義の偽善性に気づき、離れ始めていることがよくわかります。
 
 
 
今回は以前に書いた「題目板碑」の続きになります。
 
「題目板碑について」
 
題目板碑について調べてみると、日蓮正宗側の情報によりますと、本源寺、上行寺、妙教寺妙円寺等の周辺には題目の「板碑」が30基以上存在しているようです(阿部日顕監修『日興上人・日目上人正伝』356ページ、日蓮正宗、昭和57年)。
 
 
さて上記引用記事では題目板碑が実質的に「曼荼羅本尊」を石に刻んだ例も多く、その問題点を挙げて紹介した次第です。
ところで、調べていくと、この石に題目を刻む「題目板碑」はなんと大石寺3祖日目の代まで遡ることができます。

 
 
上にあげた画像は、宮城県日蓮正宗寺院・本源寺付近に現存する「題目板碑」です(同355ページ)が、本源寺開基・大石寺3祖の日目本人が石に題目を刻んだ「板碑」が現存していることがわかります。そして大石寺59世堀日亨氏もこれを日目の真蹟と認めています。
 
 
ということは、日目の伝統に則るなら、題目を石に刻んで安置することは、日蓮正宗本来の教義ということになるでしょう。
それならなぜ「題目板碑」を現在では教義としてやらないのでしょうか?
大石寺3祖日目もやっていた教義であるなら、なおさらのこと、題目を石に刻んで寺院周辺に安置することは「広宣流布」を推進する上で有効な布教方法だったのではないのでしょうか? なにしろ日興の弟子である日目が「題目板碑」を行っており、その事実を日蓮正宗も公式に認めています。
 
 
 
またそれらの「題目板碑」は、大石寺26世日寛書写曼荼羅を石に刻むような、いわゆる「曼荼羅板碑」と教義的にどこか異なるものなのでしょうか。その点についても日蓮正宗は曖昧にしたままかと思います。

 
阿部日顕監修の『日興上人・日目上人正伝』では「題目板碑」を「石で造られた塔婆」としていますが、ではなぜ今では石で作られないのでしょう?
日目の通りに教義を実践するなら、日蓮正宗はやはり石に題目を刻んで寺院周辺に置くことが正しいのではないのでしょうか?
 
 
 
 
 

 

創価学会の新版御書全集と、それ以外の御書全集との目録の違いについて。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は創価学会版の現在の新版御書全集の収録遺文の目録に関して考えてみたいと思います。
 
 
創価学会版は、いわゆる堀日亨編集版で、かつては「大石寺版」と言われていました。現在の大石寺版御書は「平成新編」を用いることが多いでしょう。
 
 
創価学会版、いわゆる堀日亨版の御書全集の目次を画像であげてみます。

 
きちんとここには執筆年次、真蹟の所在、時代写本の所在、また録内や録外のページ数まできちんと記録されています。
 
 
次に平楽寺版の『日蓮聖人遺文全集』から目次を見てみましょう。

 
ここでは本巻の目次に真蹟の所在が記され、別巻の目録にはきちんと録内録外や他受用御書等への収録の有無が記載されています。丁寧に各御書の通用される別称も付記されていますね。
 
次に日蓮ではありませんが、興風談所発刊の『日興上人全集』の目録をみてみましょう。

 
ここでは丁寧に系年や日興真蹟の所在、また収録された全集も『日蓮宗宗学全書』『日蓮正宗歴代法主全書』だけでなく、『鎌倉遺文』『静岡県史』まで確認して、その収録の有無をきちんと掲載しています。この全集には巻末に日興真蹟の写真も掲載されていまして、可能な限り真蹟から翻刻したことが記されています。
 
 
それでは現在の創価学会が刊行する、創価学会新版の御書全集の目次を見てみましょう。

どうでしょうか?
これで日蓮遺文に関して、何がわかるのでしょうか?
時代写本や真蹟の所在もわからない。そもそもそんなものを紹介する気がないとしか思えません。
これが日蓮の門流の正統な教団が発刊する御書のレベルでしょうか?
みなさんはどのようにお考えになるでしょうか?
 
 
 

 

日興と五老僧との関係について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は日蓮の弟子である「六老僧」で日興と他の5人は本当に対立していたのかという検証です。
日興は確かに民部日向と対立したことは諸文献から間違いないのですが、実は他の4人の老僧たちとは全く対立していないのです。
 
 
 
日向を除く四老僧たちが日興と敵対関係にない根拠はいくつか存在します。順番にあげてみましょう。
 
 
1、大石寺4世日道『三師御伝土代』で、富士の日興のもとを日朗が訪問しており、日朗が日興を褒め称えたことが記録されている。
 
 
これは画像を見てもらいましょう。以下の画像は大石寺4世日道の『三師御伝土代』です(日蓮正宗歴代法主全書1-270ページ)。

 
正中年間(1324〜1326年)に六老僧の日朗が富士の日興のもとを訪ね、日興のことを「御弟子にてまします」「たつとむべし」として称賛しているのです。しかも日道はここで日朗を「日朗上人」とまで書いています。これで日興と日朗が対立していると言えるのでしょうか?
 
 
2、富木常忍の実子・寂仙房日澄は五老僧・日頂の弟にあたり、日澄は日向と義絶した後、日興の門に入って重須談所の学頭に就任している。
 
 
先の1項で挙げた『三師御伝土代』の続きにはきちんと「日頂上人舎弟寂仙房日澄」が富士山の日興のもとに帰伏し、富士に住むようになったことが書かれています。日澄は富木常忍の子で、日頂は富木常忍の義息として育てられます。
その後、日澄は北山の初代学頭になり、兄である六老僧の日頂は養父の富木常忍から勘当されて後、日興のもとを訪れ、1303年に重須に正林寺を創建しています。
これらは正林寺の記録や寺伝に残されているようで、日蓮正宗も日頂が日興に帰伏し、重須にいたことを認めています。以下は阿部日顕監修『日興上人・日目上人正伝』(日蓮正宗、昭和57年)から176ページの画像です。きちんと日蓮正宗側も六老僧の日頂が日興に帰依したことを認めています。

 
 
3、五老僧が日興を批判する文献は一つも存在しない。
 
 
実はこれが最も大きいのですが、六老僧のうち、日興以外の5人が日興を直接批判した文献は存在しないのです。むしろ文献から見えてくる日興像は、師の教えに厳格であった純粋な日興の姿であり、他の老僧たちも日興の純粋さを褒め称えているのです。
 
 
4、日朗『身延離出書』では、日興とともに他の四老僧もまた日向を師敵対としており、日興に対する敵対心は文中に全く見られない。
 
 
以下は日朗の『身延離出書』(日蓮宗宗学全書1-13〜14ページ)として知られる文献ですが、マーカーされた部分を読むとよくわかります。

久遠寺の波木井殿に三つの謗法がこれあるによって、日昭、日朗、日興、日頂、日持の五人は同心に彼の山を出ること一定なり」とまで述べています。これが正しいとすれば、日興は確かに民部日向以外の5人とは何ら対立関係になかったことになります。
同書の後半は日朗による日向批判が書かれており、「日向は日蓮の御弘通の本意を背き」「大謗法の波木井の施を受て彼の山に留り給ふこと師敵対なり」とまで書かれているのです。末文で日朗は日向に対し「師敵対なれば堕地獄は一定せり」とさえ断じています。
もちろんこの文献も日朗の真蹟ではない、後世の偽作の可能性もあるでしょう。
ただそうなると、誰がこの文献を作ったのかという問題になります。仮に日朗門流が偽作したと仮定するなら、朗門は富士門流と同様に日向を批判する立場にあったことになります。しかしながらここには日興を批判するようなものはありません。むしろここで批判されているのは身延の民部日向なのです。
 
 
以上の理由から、日興と対立していたのは日向なのであり、他の四老僧とは対立していなかったことは明白だろうと思います。
 
 
 
「五一の相対を考える」
 
 
 
 
 

 

『生死一大事血脈抄』は後世の偽作である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
今回は『生死一大事血脈抄』が偽作であることについてです。
 
 
 
生死一大事血脈抄』は、創価学会信者および日蓮正宗信者さんがよく読まれる遺文の一つです。しかしながらこれは後世の偽書の可能性が非常に高い遺文なのです。
 
 
創価学会はとりわけ大石寺から破門されて後、この『生死一大事血脈抄』を多用しました。つまり会員信徒が「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の部分を用いて(創価学会旧版御書全集1337ページ)、自分たち創価学会信徒が団結することが「血脈」であると強調するようになります。

 
まあ、教団がどんな教義をどのように解釈しても自由なのかもしれませんが、実はこの『生死一大事血脈抄』はほぼ偽書で間違いありません。理由は主に3つあります。
 
 
1、真蹟、古写本が全く存在しない。
 
まず『生死一大事血脈抄』には日蓮真蹟が存在しません。かつて存在していたとするような記録さえありません。古写本も存在していません。そもそも最蓮房宛と言われる諸抄は真蹟が存在しておらず、その信憑性には古来より疑義が呈されているのです。
 
「最蓮房宛の日蓮遺文について」
 
 
 
2、『生死一大事血脈抄』の初出は録外御書からで、室町時代の15世紀以降のこと。
 
 
当然ながら『生死一大事血脈抄』は録内に収められていません。その後、録外蒐集の際に、身延山の行学院日朝(1422〜1500)が筆写した録外御書百通が身延山の宝蔵に現存していまして、この中に初めて『生死一大事血脈抄』の名が出てきます。以下の画像は浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻収録のものです(3-397〜399ページ)。

 
室町時代までその存在を知られていなかった御書が突然出てくるのであり、その信憑性は非常に低いと言わざるを得ないでしょう。しかも真蹟も古写本も存在しないのですから。
 
 
 
3、「血脈」の語は日蓮真蹟には用いられない用語である。
 
 
実は日蓮が真蹟遺文中で「血脈」という語を使ったことは一度もありません。「血脈」の語は全て日蓮真蹟の存在しない、偽書説の可能性が高いものにしか出てこない語なのです。
具体的にあげてみましょう。「血脈」という語が使われる御書は以下の通りです。
 
 
『立正観抄』
『立正観抄送状』
『百六箇抄』
『本因妙抄』
『授職灌頂口伝抄』
法華宗内證仏法血脈』
『二箇相承』
 
 
上にあげた御書には全て「血脈」の語が出てきます。これら全ての御書には日蓮真蹟は存在しません。これ以外に日蓮真蹟遺文中に「血脈」が書かれた例は存在しないと思います。このうち、『授職灌頂口伝抄』『法華宗内證仏法血脈』は創価学会版の御書には収録されていません。
つまり「血脈」という語を日蓮が使ったことはないのです。『開目抄』にも『観心本尊抄』にも『立正安国論』にも「血脈」などという語が使われたことはありません。日蓮真蹟に存在しない以上、それは日蓮の教義ではないのです。
 
 
 
創価学会日蓮正宗の信者さんは、いい加減に目を覚まして現実を見るべきかと思います。当たり前のことですが、「血脈」は日蓮の教義ではないのです。そしてその血脈という語が多用される時点で『生死一大事血脈抄』は日蓮の述作とは呼べないのです。