気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日下藤吾の戦争経済・国土計画を評価した戸田城聖。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さてTwitterでも少し書き、またブログでも以前から紹介しているところですが、創価学会戸田城聖氏や牧口常三郎氏を過去の史料から読み解くならば、彼らは反戦平和主義者とは到底言うことができず、むしろ両氏の戦争観は、時局に迎合して戦争に同意してきた当時の一般市民たちの感覚と何ら変わらなかったのかと思います。
 
 
戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」
 
「国運隆昌の祈念」
 
「戦争を肯定していた牧口常三郎
 
「興亜聖業とは。」
 
 
さて最近、戸田城聖の『若き日の手記・獄中記』(青娥書房、昭和45年)から、昭和18年の戸田の獄中の手記を読んでいて以下の一文に出会いました。
 
 
「近日宅下げの日下藤吾の『戦争経済の構造』は大変よい本であった。なくさずに取っておいてほしい。」
(同134ページ)

これは前掲『若き日の手記・獄中記』から昭和19年4月21日の日付のある戸田城聖の手紙なのですが、ここで戸田氏は「日下藤吾の著作が大変よい本であった」としています。
そこで国会図書館のデジタル公開で探してみると、この日下藤吾氏のこの『戦争経済の構造』の上巻が見つかりました。そこで少し読んでみることにしました。以下はその画像です。
こんなことが書いてありました。

「現在では、経済的厚生の理想に代つて、新しい理想、即ち「武力」、換言すれば戦争能力及び戦争準備の理想が、経済政策に於いて、大きな重みを有つに至つて居る。」
(日下藤吾『戦争経済の構造・上巻』58ページ、新東亜協会、昭和18年)。
 
少し調べてみると、この日下藤吾氏という人は革新系官僚らによって作られた国土研究会のメンバーでして、日下氏は調査官として複数の部会で働いていたことがわかりました。
ここを読めば、戸田城聖氏は獄中で戦争下における国土計画を支持する日下藤吾氏の著作を読み、それらの思想を反戦と主張することもなく、日本の戦争行為を容認していたことがわかります。
 
 
 
参考文献
山崎朗「戦前の国土計画 -「国土計画設定要綱」を中心にして-」、『経済学研究』所収、九州大学、1997年。
 
 
 
 
 

 

日蓮の偽書と六老僧の御書編纂のこと。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて、今回は日蓮の御書における「偽書」についてです。
 
 
 
偽書とは文字通り、日蓮ではない第三者日蓮の遺文に似せて作られた謀書であり、まさに日蓮遺文の「偽物」ということです。
このブログでも、日蓮の遺文について偽書の可能性が高いものを論じています。具体的には『御義口伝』『諸法実相抄』『阿仏坊御書』『百六箇抄』『本因妙抄』『経王殿御返事』『二箇相承』『教行証御書』などです。
 
 
ところで、そんなことを述べると、感情的に反発してくる創価学会日蓮正宗信徒さんがいます。彼らの多くは論理的な批判ですらなく、多くが感情的なものです。
 
 
日蓮大聖人様の御書の真贋は、その御書の内容から判断されるべきだ!」
 
「私たちが信じてきた御書を偽書というなんて許せない」
 
 
……とまあ、書くのも馬鹿らしくなってしまうような、子どものような言い訳なんですが(笑)、そもそも偽書はいつ頃から出てきたのかと言えば、日蓮滅後すぐから偽書の議論は出てきていたのです。だからこそ「偽書」については厳格に確認して何が日蓮の思想で、何が日蓮の思想でないのかをきちんと見ていく必要があるのです。
 
 
日蓮の御書編纂史や編者に関しては、多くの異論もありますが、古来から一般的に言われてきたのは、日蓮没後に六老僧が協力し、日蓮の一周忌を期して御書を集めて148編を目録に掲載したものです。更にこの収録に漏れたもの259編を加えて、これを「録内」「録外」と称したというものです。
この言い伝えがいつ頃から出たのかは年代を確定するのが難しいところではあります。寛正2年(1461年)の本成房日実の『宗旨名目』には「其目録トハ弘安六年癸未十月十二日記シ置キ給フ御書一百四十八通也」とありますから、この頃には広くこの言い伝えが知られていたことがわかります。
 
 
更に六条門流の啓運日澄(1441〜1510)の『日蓮聖人註画讃』には、六老僧が協力して弘安6年(日蓮滅後の翌年)2月から御書目録編成の計画を立て、十月の一周忌に池上本門寺において、長老の日昭の執筆でその140余編の目録を記載し、六老僧が加判したことを記録しています。この全文が身延山11世行学院日朝(1422〜1500)の御書目録の最後に載せられています。ここでは浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集・別巻』(平楽寺書店、1934年)から挙げてみましょう。

「聖人御入滅の後に於ては、定めて無道心の悪人等有りて、恣に謀書を作り、聖人の御書と称し、一切衆生を誑惑の者有るべきに依り、去る二月の頃より御僧の中貴賤の中に於て廻文を成して云く、聖人の御書所持の人々は、其の数を持拾し奉り、御一周忌に持参して、目録に入れられるべきの由、之を触れ畢んぬ。随つて悉く持参これ有りし御書、大小これを合して一百四十八通と為す。此の外は設ひ実の御書たりと雖も、左右なく目録に入るべからず。若し御書たること顕然ならば、内談を経て之を入れられるべきなり。仍て六老僧一同談合を遂げ定め畢んぬ。
弘安六年太歳癸未十月十二日
             日昭判
             日朗判
             日興判
             日向判
             日頂判
             日持判」
 
(浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集・別巻』より、364〜365ページ、平楽寺書店、1934年)
 
 
 
ここでは六老僧の手によって、日蓮滅後から「謀書」すなわち「偽書」が作られていたことが明確に書き残されています。
すなわち日蓮滅後から既に日蓮遺文の偽作は行われており、六老僧はそれを止めるべく、一致協力して遺文の収集に努めたことになります。
また中山日常(富木常忍)は、『本尊聖教録』を作り、後に『日常置文』を残すことで、遺文の厳格な管理を後世に伝えたことも、これら偽書の作成や真蹟略奪により、日蓮の思想が歪曲されることを恐れてのものであったに違いないでしょう。
日蓮滅後に偽書は既に作られており、そのことは、少なくとも15世紀前後には多くの日蓮門流に知られていたということになります。
 
 
 

 

日蓮遺文を知らない信徒たち。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて創価学会日蓮正宗、その他の大石寺系教団の信徒さんは、日蓮の真蹟ではなく偽書説濃厚なものばかりをやたらありがたがります。
日蓮の直筆、真蹟が存在しない、時代写本も存在しない、室町時代や江戸時代以降に知られるようになった文を「日蓮の思想」だと勝手に思い込んでいる姿は、無知蒙昧を通り越して滑稽でさえあります。
 
 
以前、とある読者から「日蓮真蹟はどれくらい有るんですか?」「日蓮の真蹟だけを読みたいです」という質問が来て、自分なりにまとめてみた記事があります。
 
 
日蓮の真蹟について」
 
 
私の知っているものだけで構成したので、だいぶ粗漏があろうかと思いますが、こういう勉強をさせて頂いたことはありがたかったです。
ただ問題は、このような日蓮の真蹟に関する等の研究が、逆に自動的に教団サイドから与えられるだけと考える信者ばかりになってしまったということではないでしょうか。
信者が自分たちで考えること、自分たちで学ぶことを失念してしまっているのかと思います。
 
 
例えば上記記事を読めばお分かりのように、創価学会版御書全集に未収録の遺文も多数あります。それらは読まないでも良いのでしょうか。
しかもそれでいて、偽書まがいの出所不明の文ばかりをありがたがって、それを読んで日蓮を知った気になっている人が大石寺系信徒には多いです。
例えば『御義口伝』『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』『総勘文抄』『阿仏坊御書』『一生成仏抄』『当体義抄』『百六箇抄』『本因妙抄』等々、偽書説濃厚な遺文ばかりを読んで、しかも知識は断片的。全く真蹟遺文に基づいた議論が信者はできなくなっています。そもそも「真蹟って何ですか?」と聞いてくる方さえ少なくありません。
 
 
試しに創価学会大石寺系信徒に、日蓮遺文に関する質問をするとよくわかります。
 
 
 
 
「『開目抄』の上巻には何が書かれていますか?」
「あ、私、御書よくわからなくて」
 
あの〜、『開目抄』ですけど?
 
 
 
「『立正安国論』には略本と広本の二つがありますよね?」
「それって何ですか?」
 
あの〜、『立正安国論』のことですけど?
 
 
 
「『唱法華題目抄』には『一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし』と書かれていますよね?」
「すいません、その御書、私は知りません。初めて聞きました。」
 
あの〜、『唱法華題目抄』って旧版創価学会御書全集の最初の1ページに載っている御書ですよ? 1ページ目の御書さえ読んでいないんですか?
 
 
 
……とまあ、こんな感じで、議論にさえならない。御書を読んでいない。内容を知らない。執筆年次も知らない。前後の文脈を知らない。真蹟があるのかないのかさえ知らない。
それが日蓮の正統な門流と言えるのか、個人的には大いに疑問符がつきます。
ある創価学会幹部は「真筆があるかどうかは関係ない! 日蓮大聖人様の言葉として受け止める、その信心で拝するのです!」と言っていましたが、どう聞いても客観性のある議論とは思えません。それなら創価学会版に未収録の遺文なんて山ほどあるのに、なぜそれらは読まないのか、なぜそれらは未収録なのか、その基準は「信心」なのか?
全く議論の噛み合わない人たちを大量生産してしまったのが、創価学会大石寺系教義の最大の問題でしょう。
 
 
 
 

 

池田大作の代筆の実態。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回はTwitterで反響も大きかった、池田大作の著作の代筆の実態について、元本部職員3人組(野口裕介、滝川清志、小平秀一)の著作を紹介してみます。

「そもそも私たちは、『新・人間革命』をはじめ、師匠の指導や会合へのメッセージが、本部職員によって作られている実態を知っていた。
今から15年以上前に遡るが、小平と野口は学生時代に、師匠の仕事の手伝いをする「池田学校」という現役大学生の人材育成グループで薫陶を受けていた。また、小平と滝川は、本部職員に採用されてから10年にわたって、師匠の仕事を代行する「会員奉仕局」という職場に所属していた。そこで、師匠が自身の仕事を弟子に託している実態をつぶさに見て、体験してきた。
会員奉仕局は、師匠が学会員を激励するために贈る「書籍」や「和歌」「押印和紙」に、師匠の印鑑(「大作」印)や日付印(「2009・3・16」などの印)を押印する業務を担っている。師匠に代わって行う業務である。小平と滝川はその重責を感じつつ、胸中で題目をあげながら真剣に業務にあたっていた。
また会員奉仕局の指示元であり、師匠の秘書業務を担う第一庶務には、各種会合などに向けて「池田名誉会長からのメッセージ」を作るチームがあった。日本の組織だけを考えても、全国の分県・総区・分区などの組織数を考えれば、創価学会の一日の会合数がどれだけ多いかは、想像がつくだろう。そのチームは、全国、全世界で開かれる一日に何百という数の会合に対して、師匠からのメッセージを発信している。
また『聖教新聞』に連載される「新・人間革命」や「わが友に贈る」も、師匠が弟子に一任している実態を見聞きしてきた。
「新・人間革命」は聖教新聞社の中に作成するチームがあり、資料集めから原稿作成に至るまで担当し、最終的に第一庶務がチェックをして完成させている。「わが友に贈る」も『聖教新聞』の記者が作成し、やはり第一庶務がチェックをして完成させる。
さらに、書籍『法華経智慧』や、師匠と世界の識者との対談集の作成も、実際は師匠が『聖教』の局長、部長クラスの新聞記者に著書の大方針を伝え、その後は担当した弟子(『聖教』記者)が作成していると職場上司から聞いていた。前述したが、ローマクラブ共同代表のヴァイツゼッカー博士も、「池田名誉会長との対談集は、直接名誉会長と会って作っている訳ではなく、ドイツSGIが日本の学会本部との間に入ってくれて作っている。池田先生とは数年前に創価大学の卒業式で一度会っただけなのです」と証言している。」
(野口裕介、滝川清志、小平秀一『実名告発 創価学会』58〜59ページ、株式会社金曜日、2016年)
 
 
 
この本の著者3人である野口裕介氏、滝川清志氏、小平秀一氏は信濃町創価学会本部職員だったメンバーです。彼らは信濃町公明党の姿勢を批判し、2014年6月に懲戒解雇になっています。しかしながら彼らは池田大作氏を「師匠」と仰ぎ続け、創価学会本部を「師匠の心を失った」として批判しているメンバーです。池田大作氏を師匠と仰ぐ元本部職員メンバーが、池田大作の代筆の実態を初めて暴いたことは非常に貴重な記録かと思います。
 
 
そもそも彼らがいくら胸中で題目を唱えながら業務を代行しようと、それらの作業は所詮「代筆」であり、「池田大作が書いていないもの」を「池田大作の著作と偽る行為」に等しいということなのですが、そのことが彼らには理解できないようです。
いずれにせよ、信濃町聖教新聞社の作成チームにより、池田大作が書いたとされている小説や対談集が、代筆されて作られたものであることは、疑いのない事実であると思います。
 
 
 

 

日蓮は氏神等の諸神も実在の神として認めている。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
日蓮は「神天上の法門」を述べる時、天照大神八幡大菩薩が「実在の神」であるという認識に立っています。
それは例えば『新尼御前御返事』(真蹟身延曽存)を読むとよくわかります。
 
 
天照大神は東条の郷に住まう」
 
 
つまり日蓮にあっては天照大神八幡大菩薩は「実在する神」で、『立正安国論』に説かれる「神天上の法門」とは、世の人々が法華経を信じなければ国土を守護すべき神が国から去ってしまうということを述べたものなのです。
ですから人々が法華経に帰依するならば、法味を求めて神が国土を守護するというのが、日蓮が説いた教えになります。
 
 
日蓮の神天上の法門」
 
 
ところで、日蓮はここで「神」と言う時、曼荼羅本尊に図示された「天照大神」や「八幡大菩薩」のことが考えられますが、実は他の諸神も日蓮はその実在を信じていた節があるのです。
 
具体的に日蓮真蹟から述べてみましよう。
弘安3年10月の『上野殿母御前御返事』(真蹟は小泉久遠寺北山本門寺現存)には次のように述べられています。
 
 
「かかる不思議の徳まします経なれば此経を持つ人をば、いかでか天照大神八幡大菩薩、富士千眼大菩薩すてさせ給べきとたのもしき事也」
日蓮『上野殿母御前御返事』創価学会版旧御書全集1572ページ、新版御書全集1910ページ)

 
この遺文からもわかるように、一国全てが法華経を持たなくても、個人が法華経の信仰を持つことで諸天善神の加護があることを日蓮自身が認めています。しかもここで述べられているのは「富士千眼大菩薩」すなわち「富士千間神社」の祭神のことです。したがって法華経を持つものは、天照大神八幡大菩薩だけでなく、富士千間神社の祭神の守護があることも日蓮は認めているのです。
 
 
また『三沢抄』(日興写本が北山本門寺に現存)には以下のように書かれています。
 
「うぢがみ(氏神)へまい(参)りてあるついでと候しかば・けさん(見参)に入るならば・定めてつみ(罪)ふかかるべし、其の故は神は所従なり法華経は主君なり・所従のついでに主君への・けさん(見参)は世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏をさき(先)とすべし、かたがたの御とが(失)ありしかばけさんせず候、」
日蓮『三沢抄』同旧版全集1489〜1490ページ、新版全集2014ページ)

ここでは「内房の尼」が氏神への参詣のついでに身延の日蓮のところに来たことを糺している部分なのですが、ここで日蓮が述べているのはあくまで氏神参拝に関しては「神は所従」である故に「まづ仏を先とすべし」ということであって、文意を読む限りは法華経を根本にして「まず仏を先に参拝する」限り、氏神への参詣そのものも決して否定はしていないのです。
また先述のように『新尼御前御返事』(身延曽存)では、日蓮源頼朝天照大神に東条の御厨を寄進し、神の御意に叶った故、頼朝が天下を統べる将軍になったことを認めています。
 
 
したがいまして、日蓮の信仰観には日本古来の神道氏神信仰が法華経信仰に混在していまして、まさに神仏習合の教えであったことがわかるかと思います。そもそも法華経には天照大神八幡大菩薩も出てはきません。しかし日蓮書写曼荼羅の多くに両者が書かれていることからも推察できるでしょう。
 
 
 

 

金剛宝器戒と『教行証御書』について。

 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は日蓮正宗法華講信徒がよく使う「金剛宝器戒」という言葉が引用される『教行証御書』の偽書説について、書いてみたいと思います。
 
 
大石寺法華講信徒さんは「妙法の戒体を受けたならば何者にも破壊されない、崩れない戒体を持つこととなる」と言い、これを「金剛宝器戒」と呼ぶのです。
これは日蓮正宗でよく言われる教義でして、確かに戸田城聖時代の創価学会でも言っていたことがあります。
この「金剛宝器戒」という言葉は『教行証御書』という遺文に出てきます。画像は旧版・創価学会版御書全集の1282ページです。

 
ところが、よく調べてみると、この「金剛宝器戒」という言葉、どうも日蓮の用語ではない可能性が高いのです。
まず「金剛宝器戒」という用例が出てくる日蓮の遺文は『教行証御書』一編のみです。私は他の日蓮の御書に「金剛宝器戒」という言葉が使われた例を他に知りません。
そして『教行証御書』は真蹟不存、時代古写本も不存であり、録外初出、すなわち室町時代以降に出てきた遺文に過ぎません。すなわち偽書の可能性の高い遺文なのです。
 
この『教行証御書』は年次に異説があり、文永12年説、建治3年説、弘安元年説があります。多くは文永12年説を採りますが、龍象房の問題が惹起し、対論の必要性が台頭してきたことが伺えます。この事件が『諸人御返事』(同御書1284ページ、真蹟は平賀本土寺現存)に含まれている事件と同一と考えると、この『教行証御書』執筆は弘安元年春頃と推定されます。
この時に対論に当たろうとしたのが鎌倉の三位房でした。
三位房は日蓮に指示を請い、それに対して対論の際の言語や態度に関しても周到に注意を与えたのが、この『教行証御書』だとされます。
ところで、この『教行証御書』の中で、日蓮が執権・北条時宗を「法光寺殿」と呼んでいる部分があります(同御書1281ページ)。

 
北条時宗が出家したのは晩年の弘安7年(1284年)4月4日のことです。『教行証御書』が弘安元年(1278年)成立とすれば、なぜ日蓮がまだ出家していない北条時宗法名で「法光寺殿」と呼ばねばならないのでしょう。そもそも北条時宗を「法光寺殿」とするのは、北条時宗の死後の呼び名です。
ここから考えて『教行証御書』は後世の偽書の可能性が非常に高いことがわかります。
 
「金剛宝器戒」という言葉は『教行証御書』という偽書の可能性が高い遺文にしか書かれていません。しかも他の日蓮遺文には載らない用例です。
したがいまして、「金剛宝器戒」は日蓮の教義ではないと思います。
 
 
追記
最澄は『一心金剛戒体秘決』という著作で「金剛宝戒」という言葉を使っています。この「金剛宝戒」を最初に論じた人は、中国唐代の法相宗3祖・智周という人でして、智周は『梵網経』巻下の「金剛宝戒は是れ一切仏の本源、一切菩薩の本源、仏性の趣旨なり」という部分から「金剛宝戒」という言葉を用いたようです。
とすれば、「金剛宝器戒」の淵源はそもそも『法華経』ではなく『梵網経』であり、「金剛宝戒」は本来法相宗の教義であったものを最澄が自宗に取り込んだものということになります。
 
 
 
参考文献
小島通正/小寺文穎/武覚超「天台口伝法門の共同研究」、『印度学仏教学研究』第24巻1号所収、1975年。
 
 
 
 

 

戒壇本尊が偽物である理由を列挙してみる。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は今までブログで書いてきた「戒壇本尊が偽物である理由」を簡単に列挙してみましょう。
以下の画像は熊田葦城『日蓮上人』縮刷版(良書刊行会、大正5年)のものであり、細井日達氏の発言によれば、大石寺の正式な許可を得て撮影されたものです。

 
以下は全て私がブログで言及したことですが、気になる方は「はてなブログ」内に検索スペースがあるので、そこからブログ内検索をかけて読んでみるとよいかと思います。
これだけの根拠から、戒壇本尊は単なる後世の偽作であり、日蓮の名を騙った創作でしかないことはここで断言してもよいと思います。
 
 
 
・弘安2年造立説の戒壇本尊は、日蓮や日興の遺文に全く言及がない。
 
・日興の『三時弘経次第』や『原殿御返事』にも戒壇本尊への言及がない。つまり身延を離山するに際して日興は戒壇本尊について全く言及していない。
 
大石寺4世日道の『三師御伝土代』の弘安2年の項に戒壇本尊の言及は存在しない。
 
大石寺3祖日目の『申状』他、日目の遺文にも戒壇本尊の言及はない。
 
・日興書写本尊に戒壇本尊と同じ相貌をしたものは一体も存在しない。
 
戒壇本尊の相貌は『御本尊七箇相承』における書写の指示と異なる。
 
・『御本尊七箇相承』には「能く能く似せ奉るべし」と書写の指示がされているにも関わらず、戒壇本尊はこの相承の指示通りに書かれていない。
 
戒壇本尊と全く同じ相貌で本尊を書写した大石寺法主は一人も存在しない。
 
・「奉書写之」の文言は、日興や日目、日道、日行等、大石寺上代の本尊には見られない。
 
・『日興跡条条事』原本は日興筆跡と異なることが指摘され、文書には改竄の跡が残る。
 
・『日興跡条条事』に記された弘安2年本尊について、大石寺18世日精はこれを戒壇本尊ではなく、保田妙本寺蔵の万年救護本尊と解釈している。
 
・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」は文字通り難を受けてきて27年目の意味であり、戒壇本尊が書かれたとする根拠にはなり得ない。
 
・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を「弘安2年に出世の本懐を遂げた根拠」と曲解したのは大石寺56世大石日応であり、日応以前に『聖人御難事』を出世の本懐が弘安2年とする依文とした人物は存在しない。
 
・『聖人御難事』執筆の日付は弘安2年10月1日であり、戒壇本尊造立説の日付より前の日付である。
 
・『伯耆殿御返事』によれば、弘安2年10月12日に日興は日蓮のところにはいなかった。また同抄は弘安2年10月12日の日付で日興に送付されたものなのに、戒壇本尊のことが全く言及されていない。
 
・犀角独歩氏の解析によれば、戒壇本尊の首題の文字は弘安3年日禅授与本尊と形が一致する。
 
北山本門寺6世日浄の『日浄記』によれば、大石寺9世日有が「未聞未見の板本尊」を彫刻偽作したことが記録されている。
 
大石寺9世日有の『新池抄聞書』で、歴史上初めて日有によって大石寺に本尊堂があること、大石寺の本尊堂が「事の戒壇」であることが示される。
 
戒壇本尊という呼称は大石寺14世日主まで大石寺では全く用いられない。日主の代になり、初めて「本門戒壇御本尊」という言葉が用いられる。
 
大石寺66世細井日達の発言によれば戒壇本尊は半丸太形の木だが、重さが推定数百キロであり、身延の険しい山中から日興が数百キロの重量の戒壇本尊を降ろして大石寺に運ぶことは不可能である。
 
細井日達の発言によれば戒壇本尊は身延の本堂に安置されていたとするが、本堂にあるなら誰もが見ていた筈なのに、六老僧他当時の弟子たちの文献に戒壇本尊は全く出てこない。
 
戒壇本尊が他山の文献に出てくるのは保田妙本寺日我など、室町時代以降のことである。
 
大石寺4世日道の『三師御伝土代』の「日興」伝の最後の「図し給う御本尊」の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」と書かれており、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違している。
 
大石寺ではなぜか10月12日に記念の行事は行われない。したがって大石寺は「10月12日」を公式に記念日と定めてはいない。
 
大石寺48世日量によれば日法は戒壇本尊彫刻の功績から阿闍梨号を賜ったとされるが、日興の弘安5年の『宗祖御遷化次第』で日法は「和泉公」と記され、阿闍梨号で書かれていないこと。
 
・日法彫刻の最初仏について、大石寺48世日量は「(日蓮が)我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり」としているが、日興の『富士一跡門徒存知事』では日蓮御影について「一つも似ているものがないが、正和2年日順の像だけは日蓮の面影がある」と述べており、矛盾する。
 
戒壇本尊は半丸太形で台座に嵌めて置く形状をしているにも関わらず、『日興跡条条事』では弘安2年の本尊について「相伝之可奉懸本門寺」と書かれており、「懸け奉るべき」としていること。
 
日蓮は重要な遺文や本尊には必ず「干支」を記したが、戒壇本尊に「干支」は全く書かれていない。
 
・重須(北山本門寺)学頭の三位日順は『本門心底抄』で「本門の戒壇」を語る部分で「仏像を安置することは本尊の図の如し」として戒壇本尊について全く言及していないこと。
 
・下条妙蓮寺5世日眼の『五人所破抄見聞』では本尊の讃文に「二千二百三十余年」と書かれているものが「肝心」であるとしており、「二千二百二十余年」と書かれている戒壇本尊に全く触れていない。
 
・現在の大石寺には客殿から戒壇本尊に対する「遥拝勤行」の化儀が残されているが、そもそも客殿の創建は寛正6年(1465年)であり、それ以前に客殿は存在しなかったこと。
 
・日興は重要な本尊に対して「本門寺重宝」「本門寺に懸け奉るべし」と脇書を多く残しているにも関わらず、戒壇本尊には全く書かれていない。
 
 
 
 
他にも多くの点で論じることができるかと思います。が、これだけ見ても戒壇本尊が後世の創作であり、偽作でしかないことはもはや揺るがないと私は思います。