気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自身で学ぶこと、自身の責任のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、犀角独歩さんとTwitterで話しながら、改めて感じたことを述べてみたいと思います。ツイートしたことと若干被る部分はご容赦くださいませ。



私は自分が無知であることも知っていますし、創価学会の洗脳が未だに解かれていない危惧を自身に抱くこともしばしばです。だから私はこのブログを「気楽に語ろう」と銘打った訳で、私は真摯に学びたいだけですし、ただ知識のある方から教わりたいだけなんですね。

私はすでに創価学会を退会していますが、創価学会の活動家の頃の先入観などが未だに根深く残っているかもしれず、それを客観視して自己批判する必要性も未だに感じています。



ただ私は優れた方から学びたいと思うものの、他者を見下げるような言動をする人を好みません。



私はその人の持つ知識量だけで人を評価することをしません。私が評価の基準とするのは、学問的知への誠実さであって、自分が知っていることをさも特別かのように踏ん反り返っている知識人は、申し訳ないですが、その本質において池田大作氏や創価学会幹部たちと大して変わらないように映じます。



むろんそんな知識を蓄えて踏ん反り返る人から私は学びたくないですし、学ぼうとも思えません。

私が知ったこと、私が学んだことは、何も知らない無知な元信徒が、ない頭を絞って読んで考えただけのことに過ぎず、それをブログで恥晒しのように書くことは単なる自己満足かもしれないということは、私としてはよく自覚しているつもりです。

私は大学院やその他研究機関等で研究をした経験がありません。ただ大学を卒業した後で社会人として、創価学会の活動家になり、歩く傍迷惑のように生きてきてしまっただけです。



単に私は自身の活動家だった過去の自分の愚昧さを剔抉して、理解力のない頭で真摯に学びたいだけなのです。だから学んで思ったことなど学問的になんら価値がないかもしれないとも思ったりします。



「犀の角のように独り歩め」の犀角独歩さん、また「創価学会の信仰に功徳はあるか」の米山士郎さん、「仏教と批判的合理主義」のLibraさん、「想学談林」の運ちゃんさん、「大木道惠の創価学会問題とその周辺」の大木道惠さん、また富士門流信徒の掲示板の多くの執筆者とその書き込み、そういったものを読んでは、私自身の力のなさを強く痛感することがしばしばです。



私は自分の頭で考えたいです。

私が間違えるなら、私の責任で間違えたことを認めたいだけです。

私は創価学会大石寺を批判しますが、それと同時に元活動家として周囲に多大な迷惑をかけてきてしまった、私自身の過去の責任を回避しません。

誰かを悪者にして「自分だけは正しい」と被害者面をし、自己を正当化するのは私の方法ではありません。

彼らも誤ったのかもしれませんが、私もまた誤ったのですから。

ですからこのブログで書いている創価学会大石寺の教義への批判は、同時にそれを無限定に信じてきてしまった過去の自分への自己批判でもあるということです。