気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

通牒のこと。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は昭和18年6月25日に戸田城聖氏が会員に出した「通牒」についてです。
この「通牒」については多くの方がネットや書籍等で既に述べていまして、今更私がここで言うことでもないのですけど、ご存知ない方も多いようなので私がわかっていることだけを簡単に書いてみたいと思います。



まずこの「通牒」が出された背景について。


多くの方もご存知の通り、創価学会(当時は創価教育学会)初代会長の牧口常三郎は「神札」の受け取りを拒否したと言われています。
この経緯は当局の圧力が強まりつつあった昭和18年6月初旬、牧口常三郎氏と戸田城聖(当時は戸田城外)氏は、大石寺本山に呼び出され、「学会も『神札』を一応は受けるようにしてはどうか」と諭されました。この時に二人に言い渡した人物は渡辺慈海氏(当時内事部長)、同席していたのは大石寺62世鈴木日恭氏と59世堀日亨氏でした。


大石寺側としては神札を祀ることはできませんから、一応受けるだけ受けておいて、祀らずに置いておこうというスタンスだったようですが、牧口常三郎氏がこの時、神札を受けることさえも拒否したということは彼の宗教的な純潔さを示していると言えるかもしれません。


昭和18年6月、創価教育学会会員・陣野忠夫氏は近所の人を「折伏」しようとして、その人の子どもが亡くなったことを「仏罰」と決めつけました。怒った当人が警察に訴え、陣野氏は逮捕。激しい取り調べを受け、同会の罪状が作られる起点となりました。


昭和18年6月25日、戸田氏は当局の弾圧が身辺に及ぶのを回避するため、各支部長に宛て、「理事長・戸田城外」名で「通牒」を発することになります。これが冒頭の画像になります。
以下に書かれた内容を紹介します。


創価教育学会各理事      仝  支部長殿
理事長    戸田城外

通牒

時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員に於ては益々尽忠報国の念を強め、会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、高祖天照大神、高宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すること。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること

六月廿五日」


溝口敦氏は著作の中でこの「通牒」について「弾圧逃れのためのアリバイ」としています。それが事実であるかどうかはともかくとしても、この通牒を読む限り、創価教育学会が戦争に反対していたわけではないことは明瞭かと思います。


日亨氏は富士宗学要集の中で創価教育学会に対する弾圧の項で、昭和18年6月に関して「弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し」(富士宗学要集9-431ページ)と述べていまして、6月の大石寺との話し合いの後に成された「応急策」があったことを記録に残しています。その応急策こそ、まさにこの「通牒」であり、これ以外にその「応急策」にあたるものは存在しないと思います。


この「通牒」の出所ですが、これは稲葉伊之助氏の息子、稲葉壮氏の自宅に保管されていたところを発見されたものです。溝口氏は以下のように説明をしています。


今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。」
(『妙観』平成4年5月15日付)


少し説明が必要になるかもしれません。
稲葉壮氏は稲葉伊之助氏の子息にあたります。
昭和18年7月6日、牧口常三郎戸田城聖、矢島周平、稲葉伊之助らが逮捕された際に、それぞれの家が特高警察による家宅捜索を受け、関係資料が押収されます。


それらの資料が返還されるのは戦後の昭和30年頃と言われます。
稲葉伊之助氏の娘(稲葉壮氏の姉)は、牧口常三郎の息子・洋三(戦死)に嫁いで縁戚関係がありました。その関係から稲葉壮氏は当局より稲葉伊之助の資料とともに牧口常三郎の押収資料も引き渡されることになります。


稲葉壮氏は当時会長になっていた戸田城聖と連絡をとり、資料の処置を相談したようです。結果として稲葉氏が保管する形となりました。


その後、昭和35年池田大作氏が会長に就任すると柏原ヤス氏を通じて、牧口関連の資料を創価学会に引き渡してほしい旨の連絡が入ります。この時に引き渡し漏れが生じたのか、あるいはもともと稲葉伊之助氏の資料に存在していたのかわかりませんが、ともかく「通牒」は長らく稲葉氏の自宅で保管されることになります。それが後年、溝口敦氏の調査でガリ版刷りの「通牒」の実物が少なくとも3通現存することが判明しました。


先述しましたように、この「通牒」を見れば、当時の創価教育学会がなんら戦争に反対もしておらず、「米英打倒」を「切望」していたことが文面から明確にわかります。
大石寺が神札を受ける判断をしたのは、当局の弾圧を回避するための選択だったのだろうと思います。その意味で、牧口氏の神札の拒否は彼の信仰がある意味で純粋だったことを示しているとも言えるでしょう。
しかしながら、それによって戦争になんら反対の意志を会として表明していなかった事実を覆い隠すなら、それは単なる歴史の改竄であり、歴史修正主義と変わらないように私には思えます。


戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」

「興亜聖業とは」




参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年