あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて先日の懇親会で、犀角独歩さん、大木道惠さんに教わったことはあまりに多く、全てがここに書けないでいますが、少しずつ整理しながら書いていきたいと思います。
「登山会のこと」
「順逆ともに来たれ」
上記の「順逆ともに来たれ」で、私は大石寺の教義が他山や創価学会からの逆輸入によるものが多く、その中で自山のアイデンティティを形成してきたと述べ、本来の大石寺の独自性というものがなかったように臆断しています。
大木道惠氏に今回質問したことは、「では本来大石寺に存在していたはずの独自性とは一体何だったのか」という点です。
回答は明確でした。
「それは神道です」
一瞬、絶句してしまいました。
自身の中で未消化ですが、大木道惠さんら参加者の方から教わったことを箇条書き風に書いてみたいと思います。
3、大石寺に本来「分身散影」という教義があるが、これは神道に通ずる教義であり、具体的には三種の神器の教義と通ずる。例えば八咫鏡は御神体が伊勢神宮に存在し、その形代(レプリカ)が皇居に存在する。これらの教義は本来神道のものだった。
まだ私は上記の発言について、未消化の部分もあり、まだ全てを理解したとは言えません。
しかしながら、例えば北山本門寺には「法華垂迹天照大神宮」が存在し、また大石寺にもまた古来「天王堂」「垂迹堂」が実在したこと、そして『本尊三度相伝』が長く大石寺の相伝として伝えられてきたことを考えれば、大石寺のアイデンティティに神道があったことは否定し得ない気がします。