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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本門の釈尊の脇士と為り。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて『観心本尊抄』には以下のような一文があります。創価学会版御書全集から引用してみましょう。



「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」
創価学会版御書全集254ページ)


観心本尊抄』は原漢文で書かれていまして、この部分の原文は「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士、一閻浮提第一本尊可此国」となっています。
この漢文を大石寺系教団では「本門の釈尊を脇士と為す」と訓じているのですが、実はこの訓読の仕方には批判が為されておりまして、他の刊本には上のようには書かれていません。
では一般的にはどのように書かれているのか、平楽寺書店版の昭和新修から同文を引用してみましょう。


「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為り、一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」
(昭和新修日蓮聖人遺文全集、上965ページ)


一読しておわかりのように、地涌の菩薩が本門の釈尊の脇士となるという意味になり、大石寺系の訓読とは意味が全く異なってきます。
つまり漢文の訓読の仕方も大石寺系は独自の解釈を施されていまして、それが正しいのかどうかということについては、よく考えてみないといけないということです。


追記:
もしかしたら「為」という字は「なす」と訓読されるべきで「なり」や「なる」と読むべきではないと考える方もおられるかもしれません。
しかしながら「為」を「なる」や「なり」等、「なす」以外に訓読することは他の諸御書にも見える表現でして、「為」を「なす」以外に読むことはなんら不自然なことではありません。
例えば全漢文で書かれている『立正安国論』でもそれは明らかでしょう。


「予少量為りと雖も忝くも大乗を学すに蒼蠅驥尾に付して万里を渡り碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」
(『立正安国論創価学会版御書全集26ページ)

「又云く『如来国王に為りて菩薩の道を行ぜし時爾所の婆羅門の命を断絶す』と」
(『立正安国論』同27ページ)

「鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る」
(『立正安国論』31ページ)


他の諸御書から見ても「為」の字を「なる」や「なり」と読み、「なす」と読まないことはなんら不自然なことではないということは明らかであると思います。