いつもみなさん、ありがとうございます。
(創価学会版御書全集254ページ)
では一般的にはどのように書かれているのか、平楽寺書店版の昭和新修から同文を引用してみましょう。
(昭和新修日蓮聖人遺文全集、上965ページ)
つまり漢文の訓読の仕方も大石寺系は独自の解釈を施されていまして、それが正しいのかどうかということについては、よく考えてみないといけないということです。
追記:
もしかしたら「為」という字は「なす」と訓読されるべきで「なり」や「なる」と読むべきではないと考える方もおられるかもしれません。
しかしながら「為」を「なる」や「なり」等、「なす」以外に訓読することは他の諸御書にも見える表現でして、「為」を「なす」以外に読むことはなんら不自然なことではありません。
例えば全漢文で書かれている『立正安国論』でもそれは明らかでしょう。
「予少量為りと雖も忝くも大乗を学すに蒼蠅驥尾に付して万里を渡り碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」
「又云く『如来国王に為りて菩薩の道を行ぜし時爾所の婆羅門の命を断絶す』と」
(『立正安国論』同27ページ)
「鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る」
(『立正安国論』31ページ)
他の諸御書から見ても「為」の字を「なる」や「なり」と読み、「なす」と読まないことはなんら不自然なことではないということは明らかであると思います。