気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

題目に一切が包含されるという発想。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて私は「題目に一切が包含されている」とする日蓮の考え方がよくわかりません。


そもそも題目に法華経の全てが包含されているなんて私は思いません。
それに法華経そのものが最第一であるとする日蓮の考え方は天台教学の考え方に範をとっているのかと思いますけど、これは法華経を釈迦が説いた筈だという前提に立っているだけのことで、なんら説得力もないと思います。


確かに『立正安国論』を読めば、比叡山の凋落ぶりを慨嘆しているのがわかりますので、日蓮最澄の後継として、比叡山の再興を企図して法華最第一の考え方から題目を採用したことは、彼の宗教的な信念として理解できなくはありません。ただそれ以上のものでもないですし、あえて言えば安易に題目に全てを包含させてしまう短絡さも私などには感じられます。


法華経陀羅尼品では「汝等但能。擁護受持法華名者。福不可量。」という一節がありまして(岩波文庫版下284ページ)、「法華経を名だけを受持する者を守ればその福は計り知れない」ということですから、題目を一切の根本にする発想は案外そんなところから来ているのかもしれません。しかしながらそれで「釈迦の教えが全て尽くされている」とか「題目こそが究極の法である」とするなら、その考え方こそまさに短絡的で安易な結論かと思います。


まあ、そのような日蓮の発想を受け入れて、日本国内どころか海外に展開してきた、昭和の創価学会、そして大石寺はその後どうだったのかというところでしょう。
その題目という発想、釈迦の修行の全てが題目に包含されているとして、それを信じて広めてきた結果が今の教団の姿であると思いますが、その結果はどうだったのでしょう。
それが正しかったのか、今でも正しいのか、そしてそれは未来においても永遠に有効であるのか、というのが私の疑問です。