気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

生産的な批判と総括ということ。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、多くの読者の方には既にご理解頂けていることと思いますが、私は創価学会大石寺への単なる非難中傷をこのブログで展開している訳ではありません。
そうではなく、かつてそれを信じてきた自身の批判も兼ねているのですが、現今の大石寺系教団そのものに対する生産的な批判を願って書いているのだということです。


私は単なる非難中傷、罵詈雑言、そういったものはブログで書くことをしないように気をつけているつもりです。
私は既に創価学会の非活・退会組に過ぎない者ですが、怨恨から何かを書くのではなく、創価学会等の大石寺系教団が今後どのように過去を総括し、改善して再出発すべきか、そして今までのドグマは何であったのかを明確にできるように書くように心がけています。
それは同時に、それを無批判・無前提に信じてきた自分自身への自己批判も兼ねたものであるということです。


それらの過去への総括を教団が行うかどうかは教団の課題に過ぎません。しかしかつての私が個の信仰者として、それら教団の教義を無批判に受け入れて信じてきた責任は回避し得ないでしょう。その過去の総括を単にブログで淡々と気楽にやっているだけのことです。


もしも教団が過去の教義への総括を行うならば、もう少しきちんとしたものが必要になるでしょう。例えば創価学会なら宮田幸一氏がホームページで行われている内容がまさに過去の教義の見直しにあたるかと思います。
しかし創価学会は、公式にそれらを創価学会本部の総括として公にしてはいませんし、そのことを組織やホームページ等で対外的に認めてもいません。


恐らく創価学会に足りないのはその部分であり、それなくして新たな独自性のある教団への深化など望むべくもないのだと思うんですね。


私は何ら創価学会に対して怨恨を抱いているわけでもありませんし、単なる非難中傷からブログ記事を書いているわけでもありません。ただそれら教団の論理を信じてきた自身の浅はかさを自己批判を込めて書いているだけのことです。


創価学会本体がこんな私のブログの批判を気に止めるとは思いませんが、私よりもより説得力の高い方々による批判があっても、恐らく信濃町本体は多く誤魔化して過去をなかったことにして済ますだけのことなのかと思います。そのような姿勢が批判されているにも関わらず、創価学会大石寺は自分たちの過去の姿勢について振り返ることができないのかもしれませんね。