気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自身で学ぶと言ってきたのに。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、私は創価学会の活動家時代にいわゆる「広宣部」メンバーとして活動をしていた時期があります。


「広宣部と言論企画部」


当時そこでやっていたことは何かと言えば、まあ上の記事をお読み頂ければわかりますが、多くは顕正会妙観講さんとの対論の現場に出向くこと。また他宗対策として大石寺やその末寺に潜入したりすることなどでした。


ところで、この広宣部の勉強会では、例えば「妙観講がこう言ってきたらこう言い返す」という、Q&A別に特化してさまざまな話題を扱っていたものです。


具体例を一つ挙げてみましょう。
例えば妙観講から次のような質問が創価学会に対してあがることがあります。


「君たちは誰の指南を受けて御書を読んでいるのか」

「君たちは法主上人以外に誰を師として仏法を習うのか」


この質問に対して、広宣部資料(波多地克利氏提供の資料が当時メインでした)では、多くは


「それは日蓮である」

日蓮を手本として師として自身で学ぶのだ」


等々、反論することを主張していました。
つまりわざわざ大石寺の御僧侶さんに教わることなど別にないのだと。当時の私たちも「創価ルネサンス」なんて言葉があったくらいで(今ほとんど死語ですが・笑)、自分たちで教義を考えて築いていくという在家集団としての思い込みに近い自負のようなものがあったと思います。



ところが、最近になって創価学会は教義的に自分たちで何かを考えたのかというと、何も考えられない人たちを再生産してしまったような感じがします。政治学習会と言えばなぜか『立正安国論』を勉強して、公明党を応援しようとなる(笑)のが、私には全く理解できませんし、教義の問題も本尊の問題も信濃町自体が迷走を続けていて、会員もそれに対して適切に批判できる人がいないというのが実態です。


かつて「日蓮を手本として自分たちで学ぶのだ」と言ってきた人たちなのに、10年以上の歳月が流れてみれば、日蓮の真蹟の知識もない、そもそも日蓮の遺文もろくに読んでいない、富士門流の文書も読んでいない、日興の著作などほとんど知らない、大石寺の歴代管長の文書も知らない、ろくに経文類も読んでいない、読める知識さえもない、活動に忙しくてその時間さえないという人たちを大量生産してしまっただけです。


ですから現在の創価学会の現役活動家さんの多くには、日蓮の実像を真摯に求める教学姿勢というものが欠落していると私は思います。


「自身で学ぶ」と言ってきたのに「自身で学ぶことができない」姿を露呈して、単に初代〜3代までの教団指導者を根本とするというなら、その団体が日蓮根本であるとは言えないのは至極当然でしょう。