気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

面倒見の良い幹部さんに限って。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、私が活動家時代、創価学会の直近の幹部の中には面倒見の良い人が多かったように思います。
活動家が減ってきている現在ではどうなのか、私は既に非活・退会組なので知る由もありませんが、まだそういう方がいるならいいなぁと思います。


私たち家族が貧しかった子どもの頃、面倒見の良い男子部の方や面白いお話をする幹部さんとかが子ども心に好きだったことを思い出します。


多くの方の創価学会の原体験は、実はこういう現場の人間関係にあったりします。
大石寺の信徒さんは本来伝統的に大石寺の教義を広めてきましたが、創価学会はもっと直情的で現世利益を主張し、貧しい人や苦しんでいる人の集まりとして独自のセーフティネットを形成してきました。



彼ら面倒見の良い幹部の方は人柄がとても良い方で、「会員を惑わせてはならない」という強い使命感や正義感を多くが抱いています。私はそんな幹部の方が好きでしたし、また記憶にもあります。


そんな信頼されるはずの活動家さん、幹部の方の多くは、例えば現在の創価学会の教義改正の問題や公明党の問題点、過去の史実や史料と教義の整合性の矛盾を指摘されると話をはぐらかすことが多いです。


なぜかというと、彼らの信仰の原体験は、教義ではなく、むしろ信頼できる「同志」とともに生きてきた彼らの生活体験だったりするからです。
創価学会は貧しい人たちや病気の人たちが駆け込むセーフティネット的な役割を戦後果たしてきましたから、彼らの多くは「教義の整合性」よりも「功徳を積んで体験を得る」ことの方が上位に来てしまいます。ですからそのような体験主義を採らず、史料としての整合性や教義の矛盾を問題とする私のような態度を見ると「組織を撹乱する人」「理屈をこね回して信仰の大切さを否定している人」という風に思ってしまうのです。


あえて言いますと、彼らの多くは面倒見がよく、人柄の良い人たちです。人柄が良いのは彼らがそれなりに苦労もしてきて、創価学会員として信頼できる同志とともに人生の苦難を乗り越えたり、また自分たちのように苦しんできた人たちの面倒を何くれとなく見てきた過去があるからでしょう。
だからこそ逆に、体験ではない、教義的な矛盾について指摘されても聞く耳を持たなくなってしまうのかと思います。



私見ながら、そのようなセーフティネット的な創価学会の歴史的役割はすでに昭和の名残とともに終焉していると思います。
後に残っているのは、生きてきた記憶だけです。草創の同志や親族、亡くなった過去の会員さんのことを覚えている方も少なくないでしょう。
そのような記憶に執着し、過去の創価学会をもう一度再構築しようとする試みは、もはや現在では無効かと思います。


その意味で戦後の創価学会は、信仰組織というより互助組織という側面が強かったのであって、その信仰の正統性や教義の矛盾について、今一度総括して反省してみようという私のブログの態度は、過去の体験の記憶に執着する活動家さんからは受け入れられないものなのでしょう。そんなわけできっとこのブログの諸記事の内容に関していろいろ指摘して質問しても、恐らく論点を逸らして答えない方は創価学会の活動家さんに多い気がします。