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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

二箇相承の不自然な読み下し。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで大石寺は、自山の正統性の証明として『二箇相承』(池上相承書と身延相承書[一期弘法付嘱書]の2通)をあげますが、そもそもこの『二箇相承』は偽書の疑いが強く、加えてこれらは本来北山本門寺に伝わってきた文書であります。
この『二箇相承』の信用性の低さについては、何度かブログで書かせて頂いています。


「『二箇相承』のこと」

「『二箇相承』写本の誤字」


加えて今回指摘したいのは原文の読み下しについてです。
冒頭に再び『二箇相承』写本(京都要法寺日辰写本、弘治2年[1556年]7月6日、西山本門寺蔵)の画像を載せましたので、対比しつつお読み頂ければと思います。


写本は原漢文ですが、上段の『身延相承書』の後半を白文のまま書き出すと以下のようになります。


「国主被立此法者、富士山本門寺戒壇、可被建立也」


この原文に対して大石寺系教団、創価学会等は以下のように読み下しをしています。


「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
創価学会版御書1600ページ)



ところで原文の漢文からよく考えてみますと、富士山に立てられるべき「戒壇」を「本門寺【の】戒壇」とする読み方はやや不自然な印象を受けます。
「本門の戒壇」と書くなら「本門戒壇」あるいは「本門之戒壇」と書かれるはずで「本門【寺】戒壇」とは書かれないはずです。
原文に「寺」という1字が含まれるなら、それが「本門寺」という寺の場所を指していることは疑い得ないでしょう。
つまり原文に「富士山本門【寺】戒壇」と書かれているのですから、読み下しとしては「富士山【の】本門寺【に】戒壇【を】建立せらるべきなり」と読むのが自然かと思います。



ではなぜ大石寺

「富士山【の】本門寺【に】戒壇【を】建立せらるべきなり」

ではなく、わざわざ

「富士山【に】本門寺【の】戒壇【を】建立せらるべきなり」

とやや不自然な読み下しをつけているのかという点が問題になります。


普通に読めば「富士山の本門寺」とは「北山本門寺」のことですから、この文書は「北山本門寺戒壇を建立するべき」という文書になります。
元々この『二箇相承』は北山本門寺に伝わっていた文書ですから、北山で作られた偽書ということになろうかと思います。
それを大石寺が自山の正統性を主張するために利用するなら、その中で「富士山【の】本門寺【に】戒壇【を】建立せらるべきなり」という読み下しは都合が悪いことになるでしょう。
そこで大石寺としては教義的に「富士山【に】本門寺【の】戒壇【を】建立せらるべきなり」と読ませ、加えて「広宣流布の時に大石寺は『本門寺』に名前を変える」という教義を作り、教義の整合性を図ったというのが恐らく実態かと思います。