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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

15世日昌への僧檀からの批判。





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さて大石寺では宗の管長である「法主」は「唯授一人の血脈相承」を受けているが故に、あらゆる批判は許されないという法主の無謬説を強調することがあります。


ところで大石寺14世日主の頃、大石寺と京都要法寺との通用が始まります。大石寺要法寺との間で人材交流が行われるようになり、事実、14世日主以降は15世日昌、16世日就、17世日盈、18世日精、19世日舜、20世日典、21世日忍、22世日俊、23世日啓と9代にわたって京都要法寺出身の法主が出ています。
ちなみに日主の前の13世日院の頃、永禄元年(1558年)11月9日、京都要法寺日辰は寂円入道を通じて日院に書状を送り、富士門流各山の通用を頼んでいますが、日院はこれを拒否しています。
つまり14世日主は先代の13世日院が拒否したはずの要法寺との通用を受け入れたことになります。


ところで、要法寺出身として最初の大石寺法主となる15世日昌は、慶長12年(1607年)3月に相承を受けて大石寺に入りますが、日主から始まった僧侶の通用・交流は大石寺の僧檀から多く批判があり、異論も強かったようです。
大石寺59世の堀日亨は次のように述べています。


「主師の要山盟約殊に僧分輸入は在来寺衆の悦ぶ所とならず種々の粉情をも生じたりしが如し」
(富士宗学要集8-47ページ)


日昌はその後、大石寺を擯斥されることになるのですが、その時の書状の正本が大石寺に現存しています。


「愚僧当山の堪忍成り難く候条々の事。
一、三箇年以前より衆中の心意悪口とも迷惑に御座候条退出致すべき覚悟に候事。
右、別して悪僧等ややもすれば野心をかまへ僧檀をふれまわり我等を擯出いたし先上を招くべき存念顕然に候、」
(日昌『與僧檀方衆中書』富士宗学要集8-48ページ、日蓮正宗歴代法主全書1-473ページ)


一読すればわかる通り、法主であるはずの日昌への僧俗からの批判や不満が後を絶たず、日昌本人が「堪忍成り難く」と述べています。
すなわち大石寺法主は問題があれば、普通に信徒からも僧侶からも批判をされ得る存在であったのであり、歴史的に法主が一切の批判を許さない無謬絶対の存在ではもともとなかったということです。