いつもみなさん、ありがとうございます。
「次下の嘱累品に云く『爾の時に釈迦牟尼仏・法座より起つて大神力を現じ給う右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩で乃至今以て汝等に付属す」等云云、地涌の菩薩を以て頭と為して迹化他方乃至・梵釈・四天等に此の経を嘱累し給う・十方より来る諸の分身の仏各本土に還つて故の如くし給う可し等云云、薬王品已下乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う捃拾遺嘱是なり。」
日蓮はここで嘱累品で一度宝塔が閉まり、虚空会の儀式が閉じられて、諸仏が「各本土に帰還して去った」ことを述べています。
薬王品の最後を引用してみましょう。
読めばわかることですが、薬王品の最後でもまだ諸仏は帰っていませんし、ちゃんと宝塔中の多宝如来も臨席しています。
その答えは先の『観心本尊抄』引用部分の末尾にある「捃拾」(くんじゅう)という語にあろうかと思います。
「捃拾」とは「拾い集める」という意味で、釈迦の出世の本懐として八千の声聞に授記をした法華経に対して、その利益に漏れた衆生のために説かれた経を「捃拾」としています(このことは『釈迦一代五時継図』でも書かれています。前掲御書643ページ参照)。
日蓮が法華最第一・比叡山再興の情熱を持っていたことは『立正安国論』等の諸抄からも推察できますが、この天台宗の概念を日蓮も踏襲しており、嘱累品以降の諸品は「捃拾」であると考えていたということになります。
「広宣流布は誰に委任されたか」
「二処三会は存在しない」
「本来の法華経の構成」