気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

師弟不二の用例。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
ところで日蓮の真蹟遺文で果たして「師弟不二」ということが書かれたものがあるのでしょうか。
結論から言うとありません。
 
 
例えば『華果成就御書』には創価学会員さんによく知られた「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(創価学会版御書900ページ)とありますが、そもそもこの『華果成就御書』には真蹟は存在せず、最古の写本は身延中興の三師である行学院日朝(1422〜1500)のもののみです。
 
 
つまり『華果成就御書』は日蓮滅後、数百年を経てから知られるようになった文書であり、日蓮の著作とは言えません。
 
 
これ以外に「師弟」ということを強調する日蓮系の文献は以下の通りです。
 
 
『御義口伝』2箇所、同717・748ページ
『御講聞書』1箇所、同824ページ
『百六箇抄』2箇所、858・866ページ
 
 
当然のことながら、これら講説や相伝書には真蹟も信頼できる写本も存在しません。
そしてさらに決定的なのは日蓮の遺文中で「師弟不二」という用例が存在していないということです。
 
 
では「師弟不二」という言葉が最初に用いられたのは、いつ誰によってなのでしょう。
その答えは実は大石寺26世日寛です。
 
 
「一、経云如我等無異等文。此の下次に正しく釈成する也。当に知るべし前の正釈の中は人即法に約す。故に『我等受持此五字等』云ふ也。今、釈成の中は法即人に約する也。此れに亦二意有り、一には三身即一身に約す。謂く久遠元初の自受用身也。二には一身即三身に約す。謂く本地無作の三身是也。
此の釈成の文亦分て三と為す。初め如我等の下は自受用に約し師弟不二を示す。次に宝塔品の下は無作三身に約して親子一体を示す。三に寿量品の下は久遠元初に約して君臣合体を示す云云。」
(日寛『観心本尊抄文段上』富士宗学要集4-249ページ)
 
 
つまり「師弟不二」ということを強調したのは、江戸時代になって大石寺の日寛から主張されたものであり、本来日蓮の教義とは関係がないものであるということになります。
 
 
 
 
 
追記:
日寛の『観心本尊抄文段』は原漢文体ですが、読み下しをして、読み易さの点から適宜句読点を改めたことをご了承ください。