気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

日精を尊崇していた日寛。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会側は大石寺を批判する時、大石寺18世了玄日精を「造仏」を容認したとして批判するロジックを展開した時期があります。
で、これって大丈夫なのかなと非活・退会組の自分ながら教団が心配になります(笑)。


大石寺26世日寛の本尊を信徒に頒布し、日寛の教義を部分的に用いて教団運営をしているのが現在の創価学会の実態ですが、そもそも日寛が入信・出家を決めたのは日精の説法を直接聴聞したことが契機でした。日精と日寛は同時代の人物なんですね。


日精が江戸の下谷常在寺を24世の日永に付嘱した天和3年(1683年)12月下旬、19歳の日寛はこの下谷常在寺の日永の下で得度し、覚真日如と名乗っています。


日精に対して日寛が深く尊敬の念を抱いていたことは各資料が示していまして、例えば大石寺久成坊と寂日坊の本尊は日精書写本尊を日寛が板本尊に造立し、開眼したものです。


「久成坊の御本尊造立は享保6年4月、寂日坊の御本尊造立は享保7年5月のことであり、その時期は日寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。」
(『大百法』日蓮正宗、平成16年3月16日)


また日寛は『文底秘沈抄』でも「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」と述べており、相承が日精以前からもきちんと伝わっているという認識に立っています。


そもそも大石寺の本来の中興の祖は9世日有、18世日精の二人なのであって、日寛を中興の祖とするのは59世堀日亨の見解が現在も採られているだけのことなんです。


私はそもそも日精が大石寺の18世であったと考えていますし、また日精以降、細草檀林の設立を経て八品派の教義の流入大石寺にあったと考えています。日寛は発心の師である日精から影響を受け、細草檀林で学び、自身の教学を体系化したと考えるのが自然かと思います。


大石寺を隠居した18世日精」

「敬台院と日精のこと」