気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

釈尊を御本尊と定めさせ給いて。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私は日蓮遺文を真摯に読めば、日蓮が自身を釈迦を越える本仏とする文は存在せず、日蓮自身が一貫して久遠釈迦を本仏としていたことを重ねてブログで主張しています。


「釈迦一仏にかぎりたてまつる」


「釈迦如来のたましい我が身に入り」


釈尊を本仏とする文証」


佐渡以降の諸抄でも、例えば文永9年の『祈禱抄』(真蹟身延曽存)において「釈迦仏独り主師親の三義をかね給へり」とし、釈迦仏一人のみを三徳を備えた本仏として認めています。


今回は文永7年の述作とされる『善無畏三蔵抄』(真蹟断簡:京都妙覚寺蔵)から、日蓮が釈迦そのものを「御本尊」と捉えていたことを紹介してみます。


「而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力をおはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし」
日蓮『善無畏三蔵抄』創価学会版御書全集885ページ)


「我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人・能為救護とはげませ給ふ、其の恩大海よりも深し其の恩大地よりも厚し其の恩虚空よりも広し」
(同886ページ)


読めば一目瞭然で、日蓮が一切衆生に有縁の仏とは釈迦であることを明快に述べています。
佐渡以降の建司元年の『神国王御書』(真蹟:京都妙顕寺蔵)でも「釈尊を本尊とし」という一文が出てきますが(同1525ページ)、日蓮は明確に釈迦のみを一切衆生有縁の仏と考えており、自身が釈迦を越える本仏であるとする発想は、少なくとも信頼できる真蹟から判断される限り日蓮にはなんら見られません。