気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

決して癒されない悲しみ。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
ところで、このブログで私は大石寺系教義の欺瞞や、創価学会の史実の問題等、いろんなことを書いていますが、読者から「気楽非活さんは何時頃からそのことに気づいていたのですか?」と質問されたことがあります。
 
 
正直に言うと活動家の頃です。
 
 
私が創価学会のバリバリの活動家で、夜も寝ないで活動していた頃、創価班・広宣部の活動からさまざまな文献を集めて読んでいた時期がありました。対妙観講・対顕正会対策で『慧妙』(大石寺の機関紙)や『顕正新聞』をわざわざ組織に内緒で購読していた男子部員までいたほどです。私は分県や総県の広宣部のメンバーとともに勉強会のための資料として、さまざまな文献集めを自主的に買って出てやっていました。
 
 
例えば小説『人間革命』の各版で修正や改竄があることがわかったのもこの頃でした。また改訂前の戸田城聖氏の『人間革命』で牧口常三郎戸田城聖氏が戦争を肯定する発言をしていたこともこの頃知りました。
 
 
座談会で研究発表等することも考えましたが、当時、活動家だった私としてはこのことを明らかにすることを躊躇しました。平和の団体などと言っている創価学会がかつて戦争を肯定していたなんて組織が言っていることと正反対の事実だったからです。
 
 
ですから私はその時、言うのをやめました。
どうせ組織の人に言っても伝わらないし、組織を撹乱するだけになると考えたからです。
 
 
そうこうするうちに、創価学会の活動に私自身が疲弊していきました。
私は自分が犠牲になって病身の母を守ろうと考えていました。母と一緒になってお題目を何時間も唱えたことを思い出します。
当時の私はある種のストイックな殉教者意識であったかと思います。今になってみればそれは単なる自分勝手な正義感だったのかもしれませんね。
 
 
やがて私は身体も壊して、仕事も多忙になり、創価学会の活動をすることが現実問題として難しくなりました。母も同様でした。入退院を繰り返しながらどうにか頑張ってきましたが、それも限界に近づきつつありました。
まず私が非活になりました。その次に母が少しずつ組織から遠ざかっていきました。
私が非活にならなければ誰が母の看病や介護をしたらよいのでしょう? 全ては母のためでもありましたし、現実として自身も多忙だったというのもありました。
 
 
母はやがて亡くなりました。
両親も亡くなり、気がつくと私は親戚関係全てが断絶され、誰も親類がいないことに気づきました。
創価学会として生きてきて、両親は親類から全て縁を切られていました。そして調べてみると、創価学会員や大石寺信徒さんだった親類も亡くなったり行方知れずになっていました。
 
 
私は胸にぽっかり穴が空いたような喪失感をしばらく味わっていました。もちろん仕事はしていたので忙しかったことがある意味有り難かったです。しかし家に帰って母の遺影を見るとなんとも言えない喪失感と空虚さを感じました。
今までの自分の半生はなんだったのかを考え始めるようになりました。
 
 
座談会で言えなかったこと、大石寺の教義や創価学会の教義の問題について、語るに足る人はもはや私の周りにはいませんでした。
父も母もこの世から居なくなっていました。
 
 
私はブログを書くことを思いつきました。
けれど私には学術的な研究をした経験はなく、ただただ広宣部時代にいろんな文献や日蓮の御書を読んできただけでした。
 
 
心の世界には決して癒されない悲しみがあることを私は知りました。
自身が生きてきた恥の多い半生を曝け出すにはある種の勇気も必要でしたが、一番大切だった両親を失った今、もはや失くすものも自分にはないのだと気づきました。もしかしたら亡くなった母が私の背中を少しだけ押してくれたのかもしれません。
 
 
私の母も父も創価学会の活動をしてきて、人生の最後に親類からも縁遠くなり、静かに亡くなっていきました。そして私も気づくとそうなっていました。
また多くの大石寺系信徒さん、創価学会員さんが孤立し、静かに亡くなっていく姿を私は活動家の頃から幾度となく見てきました。今度は自分の番だと思うようにさえなりました。
 
 
抜け殻のようになった私の人生に何の意味があるのかと考えました。
恐らく意味などないのでしょう。けれども私のような不幸な人生はせめて私の代で終わってほしいと思うようになりました。
私は尊敬されるような人間ではありません。自分の人間性なんて最低かと思いますし、宗教者とも言えないかもしれません。
それなら私の恥の多い半生、創価学会の活動家として生きた半生も、せめて反面教師として誰かの役に立つことくらいはできるかもしれないと思うようになりました。
 
 
私は非活になり、今までの人生を取り戻すかのように、いろんな人と会い、信頼を失った友人に謝罪をし、たくさん働いて貯金をし、外に友だちを作って遊ぶようになりました。会員との狭い交友関係に縛られるのではなく積極的にいろんな人と話すようにしました。もともと私は人と話すのが好きでした。
次第に私も健康を回復し、元気になりました。かつての私はストレスを心なしか抱えていたのかもしれませんね。
楽しく暮らすことで、きっと亡き母も喜んでくれると思い、塞ぎ込んだ心を捨て、たくさん面白いことをして笑って暮らすように心がけました。
 
 
今でも私は毎朝、母の遺影に水をお供えし、手を合わせてから出勤します。
母がいつもそばにいてくれる気がしています。
それが単なる幻に過ぎない、記号に過ぎないということも私はわかっているつもりです。
けれども人には決して癒されない悲しみがあることも今の私にはわかりますし、忘れないで覚えていたい記憶があることもわかります。
人間の言葉や記憶は記号という虚偽でしかないとは思いますが、それでも人は記号の世界でしか生きられないものなのだと思います。
時間は本当は存在しない。けれども時間が存在すると信じるからこそ、今、生きていることの有難さもわかる気がします。