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さて今回は池田大作氏が若い頃、営業部長として勤めていた大蔵商事という会社のことを書いてみたいと思います。
昭和25年(1950年)6月に、戸田城聖氏の経営する東京建設信用組合の預金払い戻しが急増します。8月には大蔵省から営業停止を命じられ、戸田は告訴される事態にまで至っていました。このため、戸田は創価学会の理事長の職を辞めざるを得なくなりまして、後任を矢島周平に譲ります。戸田は出資者に詰め寄られ「嘘つき」と連日罵られたほどで、夏季講習会にも出られない程の立場となり、このため一時的に戸田城聖は自身の名を「戸田城正」と変え、雲隠れしてしまいます。
そしてこの頃、昭和25年(1950年)秋に戸田は小口金融、不動産、保険代理業などを営む「大蔵商事」を設立します。しかしながら上記のような事態から戸田は世間を憚って自身は顧問で控え、社長として和泉覚氏、専務理事に森重紀美子(戸田城聖氏の公認の愛人)氏を立てることとなります。
池田大作氏はこの頃、60万遍の唱題を決意して行っていましたが、この年の11月に大蔵商事の営業部長となります。実際、池田の『若き日の日記』でも昭和25年11月27日に「本日、営業部長に、昇格する。」という言葉が出てきます。しかしながらこの時期の彼は不遇で給料の遅配が続き、冬のオーバーを買うのを諦めなければならないほどだったと言われています。
大蔵商事は同年12月に新宿百人町に移転しますが、営業成績は一向に奮いませんでした。が、当時22歳の池田は生まれて初めて「長」とつく役職を与えられ、働いていました。
池田が唱題を始めてほぼ100日後、昭和26年(1951年)2月初旬、信用組合を解散しても良いという内意が伝えられ、3月11日に東京建設信用組合は解散します。これにより戸田氏は法的な制裁を免れることになります。どのような手段で法的制裁を免れたのかは全く不明ですが、これにより戸田は長らく空席のままになっていた会長に就任する意向を表明することになります。
この昭和26年を境に大蔵商事の社業も好転していきます。昭和27年(1952年)春には戸田の当時7〜8000万円と言われた借財は、3割返済を含んでいたものの、皆済されるまでになります。
大蔵商事は、創価学会員の中でも小金を持っているものに日歩15銭で運用するといい、出資させた金を資金として、これまた会員に対する手形の割引を中心とした金融を行なっていました。実際に当時の聖教新聞には広告も載っていまして(冒頭画像は昭和27年11月1日の聖教新聞掲載の広告)、創価学会の会員を主たる顧客としていたのがわかります。
「割り引いてもらいたいものは創価学会支部長の紹介状をもらって朝九時までに大蔵商事に行く。商事では手形を預かり、三時にまた来いというわけだ。それから、目と鼻の先の三菱銀行市ヶ谷支店に運んで、銀行の手で振出し銀行に問い合わせ、ふるいにかけて二時に戻ってくる。割引率はふつう一割五分、三カ月手形なら四割五分を引く。会員からは日歩十五銭で運用してやると金を集めていた。」
池田はまた債務の取り立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたと言われ、後に池田自身「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』昭和43年2月10日)と述懐しています。
ともかくも昭和26年春以降、大蔵商事の社業は上向き、池田も大きく安定した収入を得るようになります。
池田は昭和35年(1960年)会長就任後に、大蔵商事から離れます。同社の社長は戸田の愛人である森重紀美子、そしてその甥の森重章となります。
この間、昭和40年12月に大蔵商事は「大道商事」に名を変えますが、この頃、脱税の容疑で同社は国税局の手入れを受け、追徴金の支払いで経営が徐々に傾いていくことになります。
昭和47年(1972年)頃には、多数の学会員から集めた資金が3億円ほど焦げ付いて、その他にも数億の負債を背負う状態になっていました。このため、森重章は経営を投げ出します。
「一昨年、二億出すからといったら四月に正本堂--それを市に貸せといったので市へ貸した。だから、それ以外に金はない。私は知らないから(正本堂基金のうち)六億のうち火災保険一億何千万、残り四億いくら、それが使えないというので他の方から積み立てた金が二億あるといったら市へ貸せというので貸してしまった……」
大道商事は昭和49年12月3日、商号を「株式会社日章」と改め、住所も世田谷区北沢に移します。役員も森重章、森重紀美子、森重光生(戸田城聖と森重紀美子との間の子息)といった、戸田氏や池田氏と繋がる人物を外し、知名度があまり高くない学会幹部、また公明党の元議員である金井賢一、松尾俊人らに変えます。監査役には福島啓充が就任しましたが、経営の実質は中西治雄だったと言われています。
戸田城聖氏が仮に池田大作氏を「唯一の後継」と認識していたとして、果たして彼が池田氏にこのような金融業の営業部長を任せるものでしょうか。その意味でも戸田氏が池田氏を後継とは当時思っていなかったことは、この大蔵商事のことからも充分に推察し得ると思います。
参考文献:
追記:
昭和27年当時の聖教新聞について、資料の提供をして頂いた方に感謝します。ありがとうございます。