いつもみなさん、ありがとうございます。
「離檀しました」
「活動はもうしません」
「お山には行きません」
「自分だけで信仰します」
「大石寺の嘘はこりごりです」
「日蓮宗の方がマシ」
等々、連絡をよく頂きます。
「本因妙抄本文の改竄」
「日興は仏像本尊を認めている」
「釈尊を本仏とする文証」
「日蓮本仏論について」
「久遠の釈迦の使い」
「釈迦一仏に限りたてまつる」
「釈迦如来のたましい我が身に入り」
「日蓮自身の釈迦本仏説の傍証として」
以上の記事、どこから読んで頂いても構いませんが、本仏にせよ本尊にせよ、その考え方が全く日蓮遺文を基本としない我田引水の説に過ぎず、都合よく遺文を使い、挙げ句の果ては後世の創作に過ぎない戒壇本尊を日蓮真蹟と偽り、それでいて客観的な証明もできず、戒壇本尊の炭素年代測定さえ全くする気はない。それでいて客観的な証明もできていないのに、自分たちの正嫡意識だけは高く、踏ん反り返って「唯我独尊」を決め込んでいる状態です。
自分たちだけが正しく、他の宗派には功徳がないということを殊更に強調するのが創価学会の特徴ですが、その源流はまさに大石寺にあり、その大石寺教義の独善性故に、私は創価学会、顕正会やその他諸宗派もまた日蓮正宗大石寺同様に「大石寺系教団」として批判するわけです。
誤解のないように言い添えておくと、私はどんな信仰を個人が持とうがそれは自由であると思います。しかしながら私が批判するのは「自分たちの教えだけが正しく、他の教派は誤りである」とする極端に歪んだ正嫡意識であり、彼らが他者の信仰を否定する故に大石寺系教団を批判するのです。