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創価学会の非活メンバーによる語り

四聖諦と十二支縁起と六処のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は以前に紹介した馬場紀寿の『初期仏教  ブッダの思想をたどる』(岩波新書、2018年)の内容を紹介しつつ、初期仏教思想の根幹にある、四聖諦と十二支縁起から、本来の釈迦の思想が何であるかを考えてみたいと思います。


「初期仏教のこと」


四聖諦と縁起という考え方に通底しているのは、私たちがどこから来て、どこへ行くのかという、生存に対する問題と言えます。


仏教以前には、バラモン教ウパニシャッド思想において自己(アートマン)が宇宙原理であるブラフマンと一致すること(梵我一如)を説きました。以前ブログで書いたように、創価学会大石寺法華講が「宇宙の原理」とか「生命」とかを殊更に教義として強調するのは、そもそもそれらは仏教の教えですらなく、本来ウパニシャッド思想であることを露呈しているに等しいんですね。池田大作氏の『法華経智慧』などはまさに仏教でも何でもなく単なるウパニシャッド思想ということになります。


「仏教は生命論ではない」


バラモン教におけるアートマンという概念は「自己」を意味するとともに「魂」や「主体」も意味します。バラモン教ではこの概念によって認識の主体や行為主体、また輪廻の主体も説明しました。


それに対して仏教は「生存」という観点から「アートマンが存在する」「アートマンが存在しない」という二項対立そのものを解体してしまいます。主体としての自己を否定し、自己を諸要素の集合として認め、いかにしてそれらが再生産されるのかという道程を示すんですね。


四聖諦と縁起と五蘊と六処は本来バラバラのものではなく、相互の関係性として理解することが大切なことのように思います。


まず四聖諦(四諦)とは「四つの真実」の意味ですが、以下の4つになります。


①苦(苦聖諦)
②苦の原因(苦集聖諦)
③苦の停止(苦滅聖諦)
④苦の停止へ導く道(苦滅道聖諦)


全ての生あるものにとって、苦は避けられない。そのことを知った上で、その原因と克服の方法を示す教えのことです。


そして縁起とは「原因によって生じること」「依存生起」を意味します。生あるものが苦しみに至るのはなぜか、その原因を探り、その関係性を示したものが縁起説とも言えるかもしれません。ここでは様々あるうちの縁起説から最も包括的な「十二支縁起」を説明してみます。


(1)老いと死(老死)
(2)誕生(生)
(3)生存(有)
(4)執着(取)
(5)渇望(愛)
(6)感受(受)
(7)接触(触)
(8)6つの〔認識器官という〕拠り所(六処)
(9)名と姿(名色)
(10)認識(識)
(11)諸形成作用(行)
(12)無知(無明)


ここでは(1)が一連の因果系列の最終的結末で、その原因を(2)(3)(4)…と遡っていき、最後の(12)が第一原因として示されることになります。
この十二支縁起以外にもさまざまに縁起説はあります。上の分類から見るなら(1)〜(5)までを要素とするのが「五支縁起」、(1)〜(8)までを要素とするのが「八支縁起」、(8)を除いた(1)〜(10)までが「九支縁起」、(1)〜(10)までが「十支縁起」に当たります。


四聖諦によれば、生の苦しみの原因は「再度の生存へ導く渇望」です。


十二支縁起では第一原因である(12)無知(無明)によって(11)諸形成作用(行)、(12)認識(識)、(13)名と姿(名色)が順次生ずるとされます。これは「五蘊」(ごうん)の「色・受・想・行・識」のうちの三つ「行・識・色」と同じです。
五蘊の残る二つのうち、感受(受)は六処と触を原因として生じるものとして(6)に組み込まれ、また表象(想)は命名の力のことであり、名と同義と考えられます。したがって十二支縁起には五蘊全てが包含されていると考えることができます。
つまり十二支縁起は、五支縁起を基本としつつ、その原因を遡って説明していくにつれ、五蘊と六処を体系的に位置付けることで成立することになります。


六処の認識器官は、六根とも呼ばれます。この6つの認識器官を通じて私たちは対象に触れ、様々に感受を持つのですが、『梵網経』という経典では、他の教えの多様な思想家が主張する62の見解を取り上げ、それらがいずれも自らの接触に執着しているに過ぎないことを明らかにしていきます。
つまり真理を悟ったと思っても、自身の経験や見解の依拠するところは認識器官に他ならない。これこそが6つの認識器官が「六処」と呼ばれる所以です。


六処に6つの対象を含めて「十二処」と言いますが、人間はこの「十二処」を離れて世界を認識することができません。仏典では、十二処を「一切」と呼び、それを離れて別の「一切」を説くなら、それは根拠がないと説きます。すなわち十二処の外に、神とか宇宙とか法とか超越的な存在を説くことは、仏教にとって根拠のない言説であるということです。


この十二処に基づいて眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識という六識を立て、これらを構成要素として組み合わせて「十八界」と呼びます。この「十八界」も十二処同様に「一切」と称されます。
すなわち「自己」だと考える個体存在は、実は6つの認識器官の束に過ぎないことになります。このような理解に立って、仏典は個々の認識器官が永遠ではなく(無常)、思い通りにならず(苦)、自己ではない(非我)と説くことになります。


つまり「非我」とか「無我」とされるものは、自己だと思われているけど、どれもそれは「自己ではないこと」を意味していることになります。ですから「無我」の本来の意味は私心がないことでもないし、何かに夢中になることでもないんですね。


つまり自己の姿、アートマンというものがそもそも存在せず、それらを根拠づけるものは6つの認識器官の束に過ぎません。そしてアートマン等が無前提に「ある」と執着することを根本的に否定したのが本来の仏教なのではないかと私は思います。



参考文献:
馬場紀寿『初期仏教  ブッダの思想をたどる』岩波新書、2018年。