気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

本尊教義の矛盾。








いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで大石寺教学の本質とは、自山に唯一絶対の正法があるとする強い正嫡意識、ともすれば独善性・排他性にあろうかと思います。


他の日蓮系教団は日蓮真蹟本尊を拝むだけでなく、例えば釈迦像を拝んだり、鬼子母神帝釈天などを拝んだりもします。
ところが、現在の日蓮正宗の教義(実質的には大石寺26世堅樹院日寛の教義)では弘安2年造立とされる本門戒壇の本尊を唯一の一大秘法として、これだけを根本にするという教義を立てています。


この戒壇本尊が後世の創作に過ぎないことは、このブログで何度か指摘させて頂いています。


「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」




ところで、日蓮系教団であれば日蓮真蹟の曼荼羅を拝むことは当然のことであるのですが、大石寺創価学会は不思議なことに、大石寺の歴代法主が書写した曼荼羅を拝んでいるんですね。しかもそのことに彼らは何の不思議も覚えません。
日蓮曼荼羅ではなく、大石寺法主書写の曼荼羅を拝む理由は以下のようになります。



戒壇本尊以外の日蓮の本尊は一機一縁の本尊(個々の信徒に与えられた本尊)であるから功徳はない。

②弘安2年の戒壇本尊こそが根本本尊であり、この曼荼羅を拝むことで成仏できる。

③しかしこの本尊は日常的には大石寺に参詣しないと拝めないので、法主はこの本尊を書写して信徒に授与し、信徒は歴代法主の本尊を通して、その本体である戒壇本尊を拝むことかできる。


大石寺の本尊教義は基本このような論理構造になっているわけです。この考え方は「分身散体の義」などと呼ばれたりします。


まず一つ目の問題は、創価学会がこれらの教義を踏襲してきた事実です。実際、信濃町の大誓堂に安置されている創価学会常住本尊は大石寺64世水谷日昇氏によって書写されたものです。
創価学会がそもそもこれを根本にしている時点で、本尊の教義については論理が破綻していると言ってよいでしょう。まして創価学会信徒が日常的に拝んでいる各家庭の本尊は大石寺26世日寛書写本尊です。


つまり「日蓮の正統を主張する教団」が、大石寺64世法主の本尊を根本本尊として、大石寺26世法主の本尊を各家庭に安置して信仰活動を行なっているということになります。これは誰がどう考えても説明のつかない矛盾かと思います。


創価学会側は「御書には弘安2年の本尊が出世の本懐であるとか、この本尊を根本とせよとかの説示はない」としていますが、この見解は身延山日蓮宗等の考え方と基本的に変わりません。


日蓮の『報恩抄』に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とあることから、現在の創価学会日蓮本仏説を否定して釈迦本仏説に移行しようとしているように見えますし、そのための教義の構築を恐らくは宮田幸一氏が担っているのかとは思います。しかしながら創価学会はかつて日蓮宗等に対して「本尊雑乱」とか「宗教において最も大事な本尊義が定まっていない」と言って批判をしてきた過去があるのですから、今回はその批判が自分たちに降りかかってくることを覚悟しなければならないはずです。それにも関わらず、現在の創価学会員さんが本尊の意義について過去も現在の意義もほとんど知ろうともしない現実には驚き呆れる他ないというのが、私の偽らざる実感と言ったところです。




参考文献:
花野充道「日蓮正宗教学の特質ーー正信会と創価学会の新教学創作の試み」『宗教研究』89巻別冊所収、日本宗教学会、2016年。