いつもみなさん、ありがとうございます。
ところで大石寺教学の本質とは、自山に唯一絶対の正法があるとする強い正嫡意識、ともすれば独善性・排他性にあろうかと思います。
この戒壇本尊が後世の創作に過ぎないことは、このブログで何度か指摘させて頂いています。
ところで、日蓮系教団であれば日蓮真蹟の曼荼羅を拝むことは当然のことであるのですが、大石寺や創価学会は不思議なことに、大石寺の歴代法主が書写した曼荼羅を拝んでいるんですね。しかもそのことに彼らは何の不思議も覚えません。
大石寺の本尊教義は基本このような論理構造になっているわけです。この考え方は「分身散体の義」などと呼ばれたりします。
つまり「日蓮の正統を主張する教団」が、大石寺64世法主の本尊を根本本尊として、大石寺26世法主の本尊を各家庭に安置して信仰活動を行なっているということになります。これは誰がどう考えても説明のつかない矛盾かと思います。
日蓮の『報恩抄』に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とあることから、現在の創価学会は日蓮本仏説を否定して釈迦本仏説に移行しようとしているように見えますし、そのための教義の構築を恐らくは宮田幸一氏が担っているのかとは思います。しかしながら創価学会はかつて日蓮宗等に対して「本尊雑乱」とか「宗教において最も大事な本尊義が定まっていない」と言って批判をしてきた過去があるのですから、今回はその批判が自分たちに降りかかってくることを覚悟しなければならないはずです。それにも関わらず、現在の創価学会員さんが本尊の意義について過去も現在の意義もほとんど知ろうともしない現実には驚き呆れる他ないというのが、私の偽らざる実感と言ったところです。
参考文献: