気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

全体人間について。






いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回のテーマは「全体人間」ということです。



現在、私は池田大作氏を、信濃町の原田会長ら執行部と併せて、このブログで批判させて頂いていますが、かつては池田氏に心酔する活動家の一人でありました。


私が若い頃、どんな人間になりたかったかを示す一つのキーワードがありまして、それこそが池田氏がスピーチで示した「全体人間」ということでした。
例えばこんな感じです。


「人格と力を兼ね備えた人間、『全体人間』が必要なのである。
『全体人間』の育成が、学会の目標である。
いくら秀才でも、信念がない。いくら有名でも、哲学がない。いくら情熱があっても、知性がない。忍耐力がない。いくら人気があっても、誠意がない。これでは、『全体人間』ではない。偏頗であり、ひとつひとつが、バラバラである。総合的な力になっていない。」
池田大作、本部幹部会スピーチ、1999年5月1日)


そんなわけで、私は「全体人間」になりたいと思いました。私も当時は血気盛んで理想に燃える若さと弱さがあったのかと思います。


ところが、私が活動家になって徐々にわかってきたことは、役職を上に上がっていくにつれ、上になればなるほど、全体人間とは程遠い、偏頗な考え方を持つ人が多かったことです。


数字で成果を出せばよい、報告は適当にあげろ、数が全て、等々、いろんなことを言い出す人がいました。また若い頃には人間的な魅力に溢れていたはずの人が、役職が上がるにつれ、魅力を失っていく姿をたくさん目の当たりにしました。


私は父の言葉である「あまり偉くなってはいけないよ」という一文がどこか心に引っかかっていました。「傲慢になるな」という意味なのか、それとも「あまり上の役職に上がってはいけないよ」ということなのかということです。
今にしてみれば、父はきっと両方の意味で言われていたのだろうなぁと今になってわかります。


「父との思い出・その2」


ネット上で見かける創価学会員、またアンチ創価学会員、また大石寺の狂信的な法華講さん、顕正会さんなど、その多くがどこか偏頗な考え方に凝り固まっていて、とても「全体人間」とは思えません。


むしろ池田大作を絶対視する池田絶対主義の人たちの多くに、全体人間とはとても呼べない偏頗な原理主義者が多く散見されることは皮肉としか言いようがないと思います。


私自身はかつて活動家だった経験から、感情と理性のバランスを取ることが時々難しくなることがあります。それでも自分を客観的に見つめ、非活になってからバランスを少しずつ取り戻しているのかなぁと考えています。
私にとってこのブログを日々書くことは、自分の過去との対峙であり、偏頗な自身の精神性を見つめ直す大切な作業のように、今は感じることもあります。