気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

在りし日の母を思って。





いつもみなさん、ありがとうございます。


最近は1ヶ月に10万を越えるアクセスがブログにあり、本当に驚いています。同時に創価学会大石寺の教義の欺瞞に気づいて離れる人、非活になる人、離檀される人が多く、メールをよく頂いています。なかなか全ての人に返信が思うようにできず、申し訳なく思っています。


ところで、最近の反響の大きかったブログの記事は、私の母に関することでした。


「母の言葉を」


母は、亡くなる少し前から非活になりました。
大石寺系の教義について、全てを全面的に否定することは難しかったようです。それでも母は「お前が正しいのかもしれないね」と言い、私とともに非活になっても、財務をしなくなって組織から離れても、私に不平の一つも言わない人でした。


母は若い頃、楽しく活動をするのが好きでした。座談会が終わると皆でワイワイとお茶を飲んだり、お菓子を食べながらトークするのが好きでした。
母は形式に則った会合など最初から馬鹿にしてかかっていました。長い幹部の話は嫌いでしたし、早く終わりにして皆で遊びに行きたい人でした。


選挙となると創価学会員は、友人を探して求め歩いたり、非常識に電話をかけたりしますが、母はそういうことはしませんでした。どちらかというと日頃の生活から友だちを作ってしょっちゅう遊んだりしていました。
友だちを作ってスポーツを観戦したり、花火に行ったり、踊りを習ったり、絵を描いたり、カラオケに行ったり、テニスをしたり、元気な頃は何でもやってました。


母にとっては友だちと楽しく過ごすことがメインなのであり、友人に布教をするとか選挙を頼むとかはあくまで二の次の問題でした。
票を叩き出すために友人台帳を作るという活動をしていた時に「そんなことやって何か意味あるのかい」と言われたこともあります。


地区で入会数の目標が届かず、布教の現場を作ろうと言うと、大抵、母は自宅に友人をたくさん招いてパーティをやったりしました。コーヒーを上手に淹れたり、お好み焼きや焼きそばを作って皆で食べたりしました。
「悩みがない人、入会したいと思わない人に布教しても意味がない」と母は考えていまして、パーティを自宅でやっても宗教の話を全くしないこともありました。そんなわけで、上の偉い婦人部幹部に睨まれることも少なくなかったようですが、母は全く気にしていませんでした。
誰よりも友人が多く、楽しく話す明るい人こそが私の母でしたから、支部内や他支部の人たちまで母を慕っていたんですね。分県の中心会館で体験発表をしたことがあって、わざわざ近隣の市から母に会いたいとやってきた人があったくらいでした。そんなわけで圏幹部たちも母を実質的に敵に回すことができませんでした。


宗教を信じることで生活が豊かになり、楽しく仲良く皆で暮らせることが母にとって大切なことでした。母は信仰の面から自分の縁戚と一部関係の断絶があったことも事実です。だからこそ逆に人と人との繋がりを大切にしていた印象があります。


形式になって形骸化するならやらない方がいい。自分たちが楽しくなかったらやらない方がいい。
楽しいことをやろう、皆で遊びに行こう、というのが母のスタンスでした。本部幹部会の同時放送に行くと帰りは大抵どこかの友人の家でお茶を飲みながらお喋りしていました。あんまり話が長いので、もういい加減にして帰ろうと声をかけたことも少なくありません。


母は苦しんでいる人に誰よりも寄り添う人でした。
地区内にいた、難病で寝たきりの旦那さんを持つ婦人を、母はとても大事にしていました。彼女の生活を喜んで支えて、代わりに買い物に行ったり、家に招いて食事をご馳走したりしていました。その女性は困ったことがあれば母のところにばかり相談に来るのです。圏幹部も本部幹部にも彼女は心を開きませんでした。ただ私の母にだけ自分の心を開いていました。母にはそういう友人が内外にたくさんいました。創価学会員であるとかないとかさえ母には関係なかったんですね。
母は貧しい暮らしがどういうものなのかを肌身でよく知っていました。だから貧しい生活をしている人を放っておけなかったのでしょう。


母の在りし日を思ってこうして書いているだけで、私は胸が熱くなるのを感じます。同時に母に教わったことを胸に生きていけることに、毎日感謝するばかりです。


信仰は形式でするものでもありませんし、組織のためにするものでもありません。私はそのことを母から教わりました。組織に汲々と縛られるために私たちは生きているわけではありません。目的は自分と周りの人たちがただ楽しく幸せに暮らすことです。それ以上の目的は母にはありませんでした。それが正しいのかどうかは知りませんが、母は自身の信仰の活動をそのようなものとして理解していました。


母のような人が昔の創価学会にはたくさんいたように思います。だからこそ社会のセーフティーネットとして、地域に密着して発展してきたのが創価学会の昭和史なのでしょう。
母はもうこの世にいません。そして創価学会の歴史的な役割も徐々に終わりつつあるのかと思います。