気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

上新田坊の講師職を任された日道。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は大石寺の日目以降の相伝についての続きです。


以下の二つのブログ記事で書いたように、日郷派の小泉久遠寺からは「日目→日道」の相伝がなかったと指摘され、当時から批判されていたことが要法寺日辰の『祖師伝』からもわかっています。事実『祖師伝』には「是ノ故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之レ無し」(富要5-34)と書かれています。


「日目から日郷への相伝について」

「日目の『法命を継ぐ』日郷」


では、日目が日道に譲ろうとしていたのは実際何なのでしょう。それを知るために日目の『與日道書』(正本大石寺蔵)を見てみましょう。


「譲渡弁阿闍梨
奥州三迫加賀野村内に田貳反、加賀野太郎三郎殿日目ニ永代たひたる間弁阿闍梨日道ニ限永代所譲與也。
一、伊豆国南條侘武、正名内いまたの畠貳反少々つくれたりといへとも開発私領たる間所譲與也。餘弟子共不可有違乱妨若至違乱者可為不孝人。仍譲状如件。
嘉暦貳年十一月十日              日目花押
又上ノ新田坊並坊地弁阿闍梨に譲與畢、又上新田講所たるべし。此上新田之事ともハ弁阿闍梨一期之後者幸松に可譲與也。仍状如件。
嘉暦貳年十一月十日              日目花押」
(日目『與日道書』日蓮正宗歴代法主全書1-217ページ)



文を読めばよくわかるのですが、ここで日道が日目から譲られたのは「奥州三迫加賀野村内に田貳反」と「伊豆国南條侘武、正名内いまたの畠貳反」「上ノ新田坊並坊地」です。そして日目は「上ノ新田坊並坊地」を「講所」としていますから、その講師職を実質的に日道に委ねたことになります。


ところで「上新田坊」とは具体的にどこのことかと言うと、これは宮城県の本源寺のことです。本源寺は弘安6年に日目によって創建されています。
また弘安6年に日目は本源寺だけでなく、上行寺も創建しています。弘安10年には柳目妙教寺を創建。そして日目が亡くなる前年、元弘2年には妙圓寺も創建しています。
つまり日目による奥州への布教活動の展開は時期としては早かったことがここからわかります。上行寺には日興書写本尊のうち、現存する最古の弘安10年10月13日の書写本尊が存在しています。


奥州4ヶ寺を日目が創建した意図は、当時から奥州に多くの法華衆徒が存在していたということであり、それら僧俗が集まる場所こそ「上新田坊」であったことが推察できるかと思います。


「上新田坊」の土地の寄進者が新田家の惣領である頼綱であっただろうということは多く指摘されています。そしてその子息であり、出家者である日道は講師職を務める条件をほぼ満たしていたといっても良いでしょう。
日道が日盛に宛てた書状からは、日道が「加賀野」「登米郡」にいたことも述べられています。またここには「あまりに、あまりに、人々留られ候間逗留仕て候」(日道『民部阿闍梨御坊御返事』同288ページ、正本大石寺蔵)と、奥州の法華衆徒に日道が慕われていたことが伺えます。だからこそ日目は上新田坊の講師職を日道に任せたいと考えたことは至極自然なことかと思います。


そもそも日道が度々奥州を訪れていたことは、この『民部阿闍梨御坊御返事』や日目の『與日道書』からも推察できます。ところが、大石寺に日道が在住していたというのは、当時の文献から導き出すことは難しいように思います。日目の天奏の際に大石寺留守居を日道が務めたという記述は了玄日精の『家中抄』の記述に過ぎず、それを裏付ける史料が見当たらないんですね。



つまり日目は日郷に対して安房国吉浜の布教を託し、同時に日道に対しては奥州上新田坊の講師職を託したというのが最も史実に近いかと思います。そして日目から日道に唯一の相伝が託されたという史料は存在していません。